この世から去り行くことは容易いが、生きることもこれまた艱難の道である。
昨月、筆者の祖母が他界してあらためて感じたことである。享年91歳。あと一週間も経てば、もうひとつ年を重ねることができたのだが、それを目前にして、黄泉の世界へと旅立った。
これで筆者の祖父母は誰もいなくなってしまった。悲しいというよりも、身近な存在が急にいなくなり、寂しいという気持ちが先立っている。
亡祖母と最後に会話したのは、わずか4ヶ月前のお盆だった。その時は、幾分足元が覚束なかったものの、高齢者にありがちな会話の擦れ違いは全くなかった。そのせいか、その時の記憶がまだ鮮明に残っていて、達者であったそのことが妙に懐かしく感じられる。
もっとも、今年の早春に大腸がんが発見されてから、体調を崩し気味であったことは、彼女を介護していた叔父から何度か聞いていた。しかし、夏に会った時には、聞いていた以上のことを感じさせるほどではなかったので、筆者の一家は安心していた。実際、それまで大病を患ったことがない人だったからだ。
ただ、秋口から風邪をこじらせたのが良くなかったらしく、それが急速に寿命を縮める原因となったようだ。
亡祖母とは、一年に二回も顔を合わせるかどうかという具合であったが、生前はよく可愛がってくれた。良くも悪くも、同居することがなかったので、様々な現実に直面しなかった分だけ、いい記憶しかない。
今回のエントリーは、亡祖母に纏わるごく私的なエントリーを綴ることで、亡祖母への追悼文としたい。
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11月最後の日曜日。叔父から電話があり、祖母が突然人事不省に陥ったと連絡を受けた。奇しくも筆者の誕生日だった。
滋賀県の片田舎まで慌てて駆けつけた時には、祖母は人工呼吸器から送られる空気で辛うじて生きながらえていた。もちろん呼びかけには応じなかった。個室には、人工呼吸器の機械音が静かに響き、空気が一定の間隔で自動的に送られるたび、祖母の胸が膨らんでは、しぼんでいく、ただそれだけが繰り返されるばかりだった。強制的に呼吸させられているとしか表現できない有様だ。
聞けば、朝方に心停止があり、心臓マッサージで蘇生したとのことであった。大腸がんが発見されるまでは大病を患ったことがない人なので、生命力は強いほうだと今でも思う。だから、眼前で静かに横たわっている祖母は、ただ眠っているだけにしか目に映らず、命の最期を遂げようとしているその姿を肯定しようにもできなかった。現実的には、まさに命の灯火が消えかかっているにも関わらず…。
途中、様子を見に来た看護士に見通しを聞いても、明確な返事はなかった。ただ、排尿がないので、状態は良くないという。これは婉曲的ながら一両日中のことであると受け取れた。
このような状況に接すると、人間の生命の長さは、誕生した瞬間に運命付けられていると、漠然ながら考えてしまう。また、人生の終幕を迎えている人間に奇跡などありえないとも思ってしまう。
しかし、父は奇跡、いや少なくとも意識の回復を期待してか、横たわる実母に声を掛けて反応を確かめようとする。筆者は、父に遠慮して「おばあさん、大丈夫か?」と無意味な問いかけをするも、心の中では最後の挨拶を済ませたのであった。奇跡はないと思ったからこそ、そうしたのである。
いずれにしても、為せることは、途方のないままに見守る。それだけのことだった。我が一家の気持ちは諦めと、もどかしさでやるせなかった。それを「もう歳だから。」と口にすることで誤魔化したのである。
危篤状態であるがゆえに、父はそのまま滞在することを考えたようだが、身の回り一切を用意しなかったので、いずれ来たるべき時に備え、いったん自宅に引き上げることにした。
しかし、猶予は与えられなかった。延命処置は丸一日ともたず、日付を跨ぐや否や、祖母は幽明界(さかい)を異にしてしまった。結局、父は最後の肉親でさえも、死に水を取れなかった。今から思えば、父だけでも残しておけばよかったのかもしれない。
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生前、祖母と父は非常に仲が良かった。例えば、毎月1回は少なからず電話をし、事細かに色々なことを話していた。筆者の母は告げ口されているようでそれを非常に嫌っていた。もっとも、世間ではマザコンと片付けられるかもしれないが、筆者の目にはそれ以上に精神的紐帯が強いと映った。なぜなら、非常に保守的な片田舎で父は長男として生まれ、また祖母はいわゆる戦争未亡人で、戦後は母子家庭を守ってきたからだ。当時、母子家庭における長男の役目とは、母と共に働き、生計を立てることに他ならなかったのである。
祖母は生前筆者に語ったことがある。非常に貧しくて、一家心中を考えたこともあると。しかし、厳しい現実から逃げずに、長年製陶会社で轆轤(ろくろ)を回し続けた。あたかも陶器職人であった亡夫の仕事を引き継ぐかのように…。筆者も幼い頃、その姿を見たことがある。当時60歳を超えていた祖母は、陶器粘土の香りが充満する作業場で何を考え、働いたのだろうか、今になって聞けばよかったと思う。きっと、ただ働くことだけが生甲斐だったのかもしれない。
父も飢えに悩まされながら生活したようだ。他人の畑から野菜を盗んではそのまま食べた話を本人から聞いたことがある。もちろん、学ぶことすらままならず、丁稚奉公のようなことをしたようだ。それがどのくらい生計に貢献したのかは分からない(もっとも、その後父はなぜか田舎に留まることを選択せず、都会に出て行ってしまった)。
しかし、祖母は幼き長男である父の稼ぎを少しは期待しただろうし、父もその期待に応えねばらないと思ったはずだ。だから、世間一般の母子関係ではなく、極貧の労苦を分かち合った関係なのだ。これは恐らく戦中派世代なら容易に理解できることなのではないだろうか。
ちなみに、筆者の祖父(祖母の夫)は終戦の年に動員され、朝鮮半島に出兵したようだ。その後、シベリアで捕虜生活を送り、復員途上でやはり出兵先であった朝鮮半島で餓死したと聞いている。それゆえに、祖父の墓には遺髪だけしか納められていない。当時小学校だった筆者の父曰く、彼の父の記憶はあまり残っていないという。半年動員が遅ければ、祖母、父共にそれほど塗炭の生活を甘受せずに済んだに違いない。
母方の祖母を亡くした時にも思ったのだが、戦争を経験した女性は逞しいし、処世に長けている。それは戦争を経験したことによって鍛えられたタフネスさゆえのことだろう。同時に、家族に対する想いも強かったはずだ。そう遠くない昔話を聞いていると、かつての家族関係は、良きも悪きも深かったようだ。現代家族のように、浅く、遠慮がちなものではない。だからこそ、親が子に、子が親に対して抱く想いは、筆者のような世代と比較して格段の差があるし、マザコンと一言では片付けられない側面もあるのだ。
ところで、訃報を聞いて駆けつけた時には、祖母は長年住み慣れた自宅に帰っていた。真新しい布団に横たわる祖母の表情は前日と比較して穏やかなものだった。本当は退屈で精神的に苦痛だったはずだ。文句を言いたくても言えずに耐えてきただろうし、我侭も十分聞き入れられなかった悔しさもあるだろう。親族の誰がそれを察知していたのだろうか。否、親族はそれを敢えて知らなかったことにして、全てが終わってよかったとする気持ちを、穏やかな表情であることに託したのかもしれない。祖母の事情など忖度せずに…。
そうして、亡くなった当日は、身内を中心とした弔問客を迎える一方で、翌日以降の通夜と告別式の段取りをどのようにするかを決めることで暮れていったのである。
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父方の田舎では、旧来の慣習が幾許か残存しており、葬祭もその慣習に則(のっと)る。従って、祖母の式一切の運営は隣組や親族で賄(まかな)う。ここでは、特別の事情がない限り、一切を葬儀屋に依頼することはしない。
今回、葬祭業者に依頼したのは棺の調達と納棺作業だけである。亡骸を納棺した時、担当者は幾重にも綿の衣を重ねた。祖母は綿雲に包まれているようだった。叔父が枕元に「これ、彼氏の写真やで。あっちで一緒になれたらええな。」と言い、60年以上も前に先立った亡夫の写真を一緒に納めたのである。
亡くなった翌日からは、筆者も菩提寺にて執り行なわれる通夜と告別式の設営に奔走したのである。その間は、これが祖母のためなのだという意識が遠のいていた。寧ろ、皮肉なことだが、祖母を亡くした寂しさを紛らわせるのには好都合だったのだ。
通夜では、訃報を聞いた関係者が続々と参列した。菩提寺で知り合った仲間、かつての職場関係、遠縁など、祖母の縁故がいかに広かったかをあらためて知ったのである。また、菩提寺は、片田舎の単なる老婆であった祖母には似つかわしくないぐらいの読経をした。生前は菩提寺に多額の寄進をし、寺の留守番まで請け負った祖母のことだから、ある意味で当然と言えばそれまでかもしれないが、住職が知恩院の要職を務めているせいか、仰々しいのが印象的だった。
翌日の告別式もまた、多数の列席者で約300席はすぐに埋められた。前夜と同じように、僧侶が読経を開始する。これまで何度、南無阿弥陀仏を唱えたことだろうか。祖母のためにと一緒に読経をしなければと思うのだが、意味が理解できないだけに身が入らない。信仰心が厚くない筆者にとって、大層な読経よりも祖母を囲んで昔話をするのが一番の供養だと思うのだが、これはあくまでも通過儀礼と割り切る。
そして、最後に棺を囲んで永劫の別れの挨拶を済ませた。いや現世での挨拶だ。厚い蓋を覆えば、触れることはできなくなる。周囲を見渡せば、誰もが涙を流している。通夜が終わった後に東京から駆けつけた兄も目を真っ赤にしている。兄は筆者以上に祖母と顔を合わせる機会がなかったのだが、やはり気持ちが動揺したのだろう。お盆の時が最後になるとは思わなかったが、兄も連れて行ってよかった。
父は今にも崩れ落ちそうだった。このような姿を見たのは初めてだ。父にとって、実家に戻るのは、唯一の肉親である母がそこにいたからであり、それが全てだったと思う。
生前から姑として嫌味を言われ続けられ、その都度立腹していた母も目頭を拭っている。
しかし、筆者は瞳が潤い、涙が頬を伝うことすらなかった。我慢していたのではない。意識的な感情の抑制すらなく、祖母の胸の辺りで組まれた手に、ただそっと筆者の手を添え、心の中で「ばあさん、またな。」と呟くだけだった。なぜ泣かなかったのか(泣けなかったのか)、自分自身の本心の所在を探ってみたが、全く分からなかった。気持ちが通っていなかったということはない。また、感情に全く振幅がなかったというものでもない。心の中ではさざ波が立っている。だが、なぜ平静を装うことができたのか、やはり今でも分析できない。
棺に蓋をし、覆いを被せることで、名残が尽きない別れに区切りをつける。出棺のため、棺を霊柩車に移し、田舎道を小一時間ほど車で走って最近建設されたという斎場に向かう。ほとんどがチャーターしたバスに乗り込み、筆者はマイカーで後を追った。
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いよいよ今生の別れがやってきた。親族はエレベーターのように扉が開いた焼却装置の前に集まり、装置に棺が納められるのを見送る。叔父が装置のスイッチを押すと、扉が静かに閉じ、中からヴォーンと機械音が響いた。もう亡骸ですら対面できなくなる。扉が閉じるのを目の当たりにし、これこそがこの世とあの世を結界する鉄のカーテンだと思った。そうして祖母は高温の中に消えていき、本当に帰らぬ人になったのである。
荼毘が終わるまで、筆者の一家と従兄とその息子だけが残り、あとの参列者はそのまま戻っていった。約1時間半待って、斎場職員に呼び出され、収骨式を行なった。職員の案内と進行に従い、寺に納める骨箱と墓に納める骨箱に分骨した。どちらも片手で持てる大きさのものだ。それらに足先から頭まで順に骨を積み重ねるように納めていく。
荼毘に付した金属製の台座は、まだ熱気をもっていて、長箸で抓(つま)むように拾い上げる作業をゆっくりと行なった。極楽浄土へと導く作業が粛々と進んでいく。そして、今度は遺骨となって帰宅を果たすのである。
台座に残された骨だけになると、脱力感といえばいいのか、虚無感というのか、台座の上で散々になった骨を目の当たりにして、出棺時のような感情とはまた違う感情が湧き出てくる。諦念なのかもしれない。
本来は、喪主である叔父に骨箱を預けなければならないのだが、用意された骨箱に納めたところで、父が、申し訳なさそうな口調で、さらに分骨を斎場職員に頼んだのであった。すると、職員はそういうことにも慣れているのか、これに壊さないように包めばよいと快く紙を差し出したのである。
父と叔父は兄弟だが、微妙な関係で、内緒で分骨することを知られたくない様子だった。父が自分用に分骨してもらったのは、祖母は生前父と同じ墓に入れて欲しいと頼んでいたようだった。母は、「お父さんが死んだら、ひとつの骨壷に入れてあげる。」とその場で言った。父にとってもそれを望むところだろう。
そうして、内緒で分骨した遺骨は無事筆者の自宅にやってきたのである。筆者としては、生前遊びに来てと何度か誘ったのだが、連れがいないためか、生返事だけで要領を得なかったのを記憶している。
四十九日が終われば、須磨寺に安置し、既に納骨を済ませている母方の祖母と一緒に過ごす。祖母はあの世でも決して寂しい思いをすることはないと思う。
斎場からの帰途、三日三晩仏様のお守りをしてきた父を見ると、疲労はピークに達し、身体はよろめき、会話が一致しないという有様で、恐らく母を亡くした精神的なショックが影響しているのだと思われた。帰宅をしても、終始座り込んで、うつむき、生気を感じることができなかった。
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祖母の生涯は、当時多くの人たちと同じように決して恵まれなかった。先にも書いたように、艱難の人生だった。しかし、家族のために働き、貧しいながらも立派な一生涯だったと思う。そして、その生き方に心から尊敬したい。筆者がこうしてこの世に存在しているのも、祖母が心中という選択をせずに、あえて艱難の道を選び、そして生き抜いたからだ。
生きることは難しい。だが、ここにそれを克服した祖母には、身贔屓かもしれないが、素直に敬意を表したい。
今頃は黄泉の国で、夫と再会を果たし、夫が知らない時代の話をたっぷりとしていることだろう。
了
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