2009年3月14日 (土)

時流に諍えなかったブルートレイン

昨晩、東京と九州から、伝統ある夜行列車がラストランをした。関西では昨年から夜行列車のリストラが加速化し、夜のホームから情緒ある景色が消えようとしている。

ブルートレインが相次いで廃止されるようになったのは、夜行バス、格安航空券などエコノミーな移動が定着したのと、夜行列車の設備老朽化で防犯上安眠できないという理由があるそうだ。それらは尤もな話だろう。

時代が求める旅は、ファーストフードの売り文句のように「速くて安い」だ。本来、旅をするということは時間を忘れ、滞在地に身を委ね、気の赴くままに歩き回るはずのものだ。栞やガイドブックを片手に興味に任せて、時に訪問地の粗末さに肩を落としたり、時に予想外の面白さに再訪したいという誘惑に駆られたり、そういう非効率さが旅の醍醐味であるのだ。だから、ひとつひとつが記憶に残り、心の中で反芻できるのだ。

これとは対照的に、現代の旅のスタンダードは、行く先々を時間単位で管理するパックツアーが商品化され、ベルトコンベア式の移動、つまり効率重視の旅が持て囃されている。数十名が一斉にバスで移動し、幾多の訪問地を目指す。外国ならまだしも、この日本で、だ。それが旅のスタンダードであることは、自由旅人である筆者にとっては、旅の哲学に反し、個人的に承服できないのだが、スタンダードであるという事実は厳然と存在する。

ブルートレインは、この効率重視のスタンダードに真正面から反し、まさにこれに負けたのだ。移動に時間を要し、車内にはエンターテイメントがない。移動中は専ら就寝することだけが車中での過ごし方だ。だが、移動にも刺激を求める旅人にとっては、ブルートレインはレールの繋ぎ目が騒音にしか聞こえない退屈なものなのだ。

そして、あるのは車窓に流れる夜の街。そうであっても、情緒を求める旅人にとっては、ポツリポツリと街灯が民家を照らす風景は、「ここの人たちはどのような暮らしをしているのだろうか。」と見知らぬ人たちに思いを馳せるには、何にも代え難い景色であるのだが、効率重視の旅人には苦痛を与える闇夜以外の何者でもない。

時代がブルートレインから主役の座を奪い取ったのは否定できない。そして、リニア・モーターカーが全国に普及する将来には、新幹線が遅いと放逐されるのかもしれない。そして、我々は時間という鞭から半永久的に解放されず、旅においても時間の奴隷と化さねばならないのであろう。移動手段の高速化は、人間を時の奴隷とする、悪の枢軸かもしれない。

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http://www.youtube.com/user/syaso

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2009年3月 6日 (金)

学び舎を去る君たちへ贈る言葉

桜の開花が待たれる季節に、学門を背に世に出る君達に3つの言葉を贈りたい。

「河海は細流を択ばず(かかいはさいりゅうをえらばず)」(史記・李斯列伝)

学び舎を去るということは同時に、誰しもが社会に出て活躍することが期待されているということを意味する。その時には、自らの意見と他者の意見が一致せず、つい我を通しがちになる。しかし、我を通すだけでは器の小さい人間に止まり、成長することは見込まれない。自らが成長し、向上するためには包容力を持つことが必要である。他者の意見に耳を傾け、尊重することも社会人のマナーのひとつとして身につけたい。

「怨みは大に在らず亦た小にも在らず(うらみはだいにあらずまたしょうにもあらず)」(書経・康誥)

ほんの些細なことで他人から怨まれることが往々にしてある。それが人間関係に大きな禍根を残し、ひいては仕事に支障を来たすこともある。自らの発言や行動を常にチェックして、何事においても不用意なことをしないように留意すべきであろう。

「死して後已む(ししてのちやむ)」(論語・泰伯)

社会人になることが人生のゴールではない。また、出世を目指すことも然り。一見すれば、人は同じような生き方をしているように思えるが、必ずしもそうではない。いかにして徳のある人生を歩むかが人生の目標であり、また終着点である。自分自身の生き方に理念を持って現世を去るまで努力し続けなければならない。片時も休むことなく仁道実践のために努力しなければならないということだ。徳を追求することが人としてあるべき姿であり、死するまで続けなければならない。そのことを忘れてはならないだろう。

出典:金岡照光編『三省堂 中国故事成語辞典』三省堂

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2009年2月23日 (月)

阪神支局襲撃事件と週刊新潮(2)

週刊新潮の特別企画は、2月19日号を経て、2月26日号で完結した。都合4回の連載であったが、前回のエントリーで書いたように、実行犯の告白に疑念が沸かないと言えば、否と答えるしかない。肉薄した真相告白がないからだ。しかも、4回も連載したのに、重要な点に関して、どれひとつとして得心させられるものは存在しなかった。

記事の内容を各々検討しようかと思ったのだが、既に他のメディア(たとえば週刊文春)などでも批判されているので、筆者はそれに任せることにした。

ただ、簡単に書けば、2月19日号にあるように、インテリジェンス専門家の佐藤優氏(起訴休職外務事務官)の本誌記事へのコメントを引用して信憑性を持たせようとしたり、佐山氏と島村氏の会話の中で、佐山氏がCIAやFBIが関係しているかのごときことを明言したりしているが、いずれも新潮側の我田引水であるように感じられる。

普通に考えると、CIAやFBIがエージェントを事件に関与させるとしても、そう簡単に情報漏洩することはない。エージェントが情報を漏洩し、それが特別の任務を負った大使館職員でもない佐山氏に流れるようであれば、工作活動としては失敗といわざるを得ない。当局ならびにエージェントはミッションに関して極秘かつ完全黙秘でなければならない。そうでなければ、目的の遂行は到底覚束ないからだ。

しかも、新潮側の佐山氏に対する個別取材で、佐山氏は新潮の質問を完全にはぐらかしている。寧ろ島村氏との関係を必要以上に認めないスタンスをとっている。これを意味するところは何なのだろうか。過去の連載記事と照合させると、辻褄が合わないのである。

連載最終話となる2月26日号では、記事の最後に「事件の本当の全貌」という小見出しで、これまでの批判に答えるかのごとく、反論にならぬ反論が掲載されている。一読しただけで、でっち上げに近い本誌記事を再度批判する気力は最早筆者に失われていた。

4号にわたる掲載のいつかは得心できる記事があるのではないかと、新潮の戦略に敢えて乗ってみたのだが、あまりに杜撰な内容であったことは否めない。

なお、新潮45(2009年3月号)で取材班が入手した実行犯の手紙と犯行ノートが掲載されるようだ。ここまで乗った舟だから、筆者は「45」まで付き合おうと思っている。

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2009年2月 7日 (土)

阪神支局襲撃事件と週刊新潮

先週から連載されている週刊新潮に、朝日新聞阪神支局襲撃事件、別称赤報隊事件(警察庁指定116号事件)の実行犯とされる人物による実名告白記事が掲載された。広告に釣られたというのもあるが、真犯人なら事件の経緯をあからさまに知ることができると思い、早速通勤途中のコンビニで買い求めた。

読んで思ったのは、幾つかの点で率直な疑問点が浮かび上がったことだ。実行犯の告白の割りには、曖昧なところや一般人が合理的に考えうることと一致しない点が多々あり、週刊誌独特の「吹かし」記事の域を出ないというのが筆者の感想だ。

以下、筆者なりの感想を書いてみたい。

1 真相告白に至った経緯の曖昧さ

実名告白者(実行犯)である島村征憲氏が、告白に至った動機は、彼の元にいた若衆の死亡が原因だという。

連載が始まった週刊新潮2月5日号によると、島村氏が右翼団体を主宰していた当時、彼の元に転がり込んできた若衆の川上守(仮名)氏が平成9年に排ガス自殺を図ったという。島村氏が彼の死を重く受け止めているのは、彼を見張り役にさせたことにあり、「事件後、マモルも相当な重圧と闘ったと思うんです。そうさせた私には重い責任がある」と、答えている。

筆者がまず疑問に感じたのは、若衆の死亡原因と阪神支局襲撃事件が関係するかどうか明らかでないのに(少なくとも事件関係者が口封じのために若衆を殺害したというのではない)、それを口実に告白する点が首肯できないということだった。

普通に考えると、真相告白は、実行犯の命が何らかの理由で危機に曝されるか(道連れ的な秘密の暴露)、それとも襲撃依頼者に対する個人的な義憤がインセンティブでなければ、事件発生から約22年経った今頃になって事の経緯を白状しようという心理状態になるとは思えない。そのようなことがなければ、却って告白者の分(ぶ)が悪くなるだけだろう。

川上氏が、なぜ自殺を図ったのかについては明らかにされていない。遺書などが残されておらず、自殺原因が分からない以上、島村氏の個人的悔恨が告白に至ったと納得するのは、彼自身はそれで良しとしても、一般的な読者には難しいのではないだろうか。

ちなみに、編集部は、川上守氏の存在、自殺の有無について、独自ルートで調査していないようだ(裏付けをとっていないということ)。この点でも、記事の信憑性がいささか揺らぐ。

2 襲撃依頼者の存在 

島村氏は、ある公的組織に属する人物から襲撃依頼があったと言っている(2月5日号)。その公的組織というのは、2月12日号で明らかにされた。在日アメリカ大使館元職員の佐山氏(仮名)だという。記事本文の最後に、遠慮がちというか、さらりと在日アメリカ大使館職員であったことを明言している。

2月5日号を再読すると、編集部は佐山氏がかつて所属していた、この「公的組織」に在籍確認をとったようだ。すると、辞職はしていたものの、在籍が確認されたようだった。ただ、そうであっても、「公的組織」に在籍していた佐山氏と、記事に出てくる彼の佐山氏が一致するという保証はない。別人が「公的組織」の佐山氏に成りすませて、接触したかもしれないという可能性もある。編集部は、電話一本だけで確認を済ませ、独自の裏付けをとっていないし、直接コンタクトした様子も見られない。

いずれにしても、「公的組織」であろうと、在日アメリカ大使館元職員であろうと、十分な裏付けが取れていない以上、かなり曖昧で信憑性に欠けるし、かりに実際のことだとしても、いくら時効が成立した事件とはいえ、実行犯が口封じされてしまうことも考えられる。それでもなお、名指しし、全てのリスクを負う覚悟が島村氏にあると判断してよいのだろうか、気になった。

つまり、彼は自分が口封じをされてしまうリスクを承知してまで告白したかったのだろうか、その辺りが疑問だ。命を保証された上での告白ならば、まだ理解できるのだが、記事を読む限りではそのようなことを窺い知り得ず、告白する対価が見いだせないのだ。

アメリカ大使館への直接取材を編集部はしたのだろうか、それが気になる。もっとも、事件がどのようなものであれ、大使館側は一切を否定するだろう。実際、J-CASTニュースというメディアによると、本件に関して全く相手にしていないようだ。

3 朝日記者の対応

2月5日号によると、島村氏は、別件で逮捕され、服役していた刑務所より、朝日新聞に手紙を送り、記者が面会にやってきたということだ。その際に、面会に来た記者は、実行犯に向かって罵倒したというのだ。事件は時間的にかなり経過しており、しかも面会に来た記者は犠牲者と親戚関係にもないようだ。

つまり、面会に来た記者が、事件に個人的な義憤を感じるとしても、面会した記者と事件の犠牲者が親戚関係でもないのに、素直に考えて激昂する理由があるのだろうかということだ。それに真相を冷静に追究せずに、ただ激昂するような新聞記者は、もともと資質不足に感じられる。

朝日側は、今回の記事内容に関して事実と相反する部分が多く、真剣に取り合っていないようだ。新潮編集部も、朝日に問い合わせて、島村氏の告白に関して矛盾する点がないか、そして再度島村氏に確認を取るべきだったのではないだろうか。

加えて、面会室で激昂するような状況になったならば、監獄秩序維持のために、刑務官が制止するなり、面会を打ち切るはずだが、刑務官の動静が記事から読み取れない。これほど、肝心な状況だから、実行犯は刑務官の動静にも言及するはずなのだが…(もっとも新潮サイドで編集したのかもしれないが)。

この時点で、筆者は、自作自演の芝居に新潮サイドが乗せられたか、あるいは新潮サイドによる「吹かし」記事、意図的な創作または虚構か、のいずれかではないかと読んでいる。ただ、もう少し気になる点があるので続けたい。

4 襲撃対象の謎(動機)

一連の襲撃事件に関して、なぜ阪神支局が対象に含められたのか、襲撃依頼者は朝日新聞社という組織を苦々しく思っていたようだが、なぜ特定人物を狙わなかったのだろうか、2月12日号を読んで首をかしげてしまった。

島村氏が佐山氏と事件に関して接触したのは昭和61年夏頃らしい。用件を尋ねる島村氏に対して、佐山氏は「朝日をやってほしいんだ。」と記事に書いてある。その詳細が続けられている。

佐山氏が島村氏に話した内容というのは、小樽のレストラン経営者が日露間のヨットレースの実行委員長を務めており、それを利用して軍事転用可能な電子機器を不正輸出しており、その機器購入を仲介しているのが朝日新聞の社員だという趣旨だ。さらに、北朝鮮の軍事施設の建設に日本のゼネコンが絡んでおり、その仲介も朝日関係者だということのようだ。そこで、佐山氏から実行着手金として多額の現金が供与されたことを明らかにしている。

記事は、事件の契機が反共絡みであることを示唆している。佐山氏が朝日を個人的憎悪の対象にしているのか、それとも在日アメリカ大使館も関係しているのかは記事から判読できない。

しかしそうであっても、不正輸出の直接の行為者やゼネコンをターゲットにするという話ならまだしも、仲介役の-しかもどこまで関与しているのか、佐山氏は島村氏に直接証拠を提示していない-朝日新聞を狙うという理屈は襲撃の理由として小さすぎるのではないかと、筆者は感じている。しかも、在日アメリカ大使館も関与していたとしても、インテリジェンスの最先端を行くアメリカが田舎芝居如きのことを到底行なうとはやはり思えないのだ。

佐山氏は、巨悪を征伐する大義名分を持っていたのかもしれないが、これだけの話に限定すれば、朝日は巨悪とはいえない。逆に、朝日を襲撃する理由を無理から探してきたという程度に過ぎないと思われる。

当然、阪神支局は不正輸出などに関わりがない。関わりがない地方の小さな部局を襲撃して、大きく報道されこそすれど、テロとしてのインパクトは弱い。東京本社に至っては屋外から散弾銃を発射しただけに終わっている。

普通、襲撃犯の立場なら、犠牲者には失礼な表現になるが、本社の中に入り込んで銃撃し、支局はせいぜい屋外から狙撃するぐらいだろう。少なくとも筆者なら、そうする。佐山氏は、この点に関してどこまで計算していたのだろうか。

襲撃の費用対効果を考慮した場合、朝日に与えるダメージはあまりに少なく、政治的テロというよりは朝日を狙った殺傷事件という性格が強いように思われる。いずれにしても、襲撃対象が本末転倒しているのだ。

5 犯行声明

2月12日号では、犯行声明について言及されている。犯行声明は、東京本社襲撃が大きく取り上げられなかったことに不満を抱いた佐山氏が島村氏に問い合わせた結果、注目度を上げるために、当時大物右翼としてメディアにも露出していた野村秋介氏(死去)に依頼したということだ。

そのときに興味深いやり取りが行なわれている。犯行声明を出そうという島村氏に対して、「いや、そんなことをして塾長(注:島村氏)がパクられるのはまずい。こっちに火の粉が降りかからないようにしてくれないと困る。」と佐山氏は答えている。

火の粉が降りかかるのを気にするぐらいなら、襲撃は他人に任せないで自ら実行するのが筋というものではないだろうか。他人に任せた時点で、事件の行方は自らの手から離れるようなものだから、そこから生じたリスクを負わねばならない可能性は大きくなるはずだ。佐山氏は、事件の発覚を恐れるほど臆病だということなのか。それならば、最初から島村氏に実行の有無に関して確認をとるべきではなかったか。実際、真偽は別にして島村氏からこのように暴露されたのだから。

話を戻して、肝心の野村氏は拳銃自殺を図っており、現世には存在しない。したがって、犯行声明を本当に執筆したのか、今となっては不明だ。穿った見方をすれば、「死人に口なし」ではないが、後付けの理屈(アリバイ?)として他界した彼の存在を利用したとも言えなくない。

以上、率直な感想を綴ってみた。実はまだ連載が続くようなのだが、ここまでで真実性がかなり薄い内容であることが判明する。公安当局でもない一般読者の筆者に疑念を挟まれるぐらいだから、全体として疑わしい内容といえる。

あと、簡単ながらそれ以外の感想を書くと、島村氏はカネに踊らされたピエロを見事に演じきった(もしこの話し全体は真実ならばという条件がつくが)。佐山氏を狡猾で不気味だと罵っているが、罵る程度に無責任な態度を取っており、若衆の自殺をきっかけに真相告白という割りには反省の態度が見られない。

さて、週刊新潮は今回の記事に関して各メディアから一笑に付された形をとられているが、次号ではどのように「修正」するのだろうか、注目したいところだ。

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2009年1月12日 (月)

定額給付金を巡る政治家の矜持

悪名高き定額給付金問題を越年させているとは、甚だ残念なことだと思う。筆者は以前のエントリーにも書いたように、額の高低を云々しているのではない。給付に見合うだけの経済効果が得られないことが素人目でみて明らかだから批判的なのだ。

しかも、最近朝日新聞に報道された記事を読んで、さらに政治家の器量の浅さや矜持の無さに、この国の政治は国民だけが悪くしているのではなく、政治家もそれ以上に加担しているのを改めて思い知らされた。

http://www.asahi.com/politics/update/0109/TKY200901090131.html

それによると、国会議員や閣僚も受領するかどうかという話の流れで、その使途についての見解が明らかになったのである。

例えば、飛騨牛を購入する、省エネ商品の購入とか俗物根性の塊のような意思表明がなされていて、政治家としての矜持が無いのかと嘆息した。国民が支弁した公租公課が財源となる給付金を自らの欲求を満たすためだけに使途するのは、税金の横領に他ならない。

およそ政治家なら受領しない、あるいは受領するとしても生活困窮者のことを慮り、NGOやボランティア活動に寄附すると答えてもらいたかった。そもそも国家予算が逼迫しているというのなら、議員歳費の引き下げを検討するのが筋ではないかということでもある。

新年から閣僚がかくのごとき有様であるならば、政治不信が半永久的に解決されないのは首肯できる。選挙で民意を問わずして、その結果は自明であろう。

PS アクセスされた皆様、新年もご愛読をどうかよろしくお願い申し上げます。

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2008年12月25日 (木)

神のみぞ知る日本の行方

外出から帰宅して何気にニュース番組を観ていたら、特集番組が組まれていた。その中で、我が国の社会が末期的な状況にあることが悲観的に伝えられていた。天皇誕生日という国家的慶賀であるのに…。

そのドキュメンタリーでは、誰にも助けられない貧困者が同情に値しない凶行に及び、そしてその対極にいる被害者も同時に救われていないこと、真面目に働いても企業論理で解雇される非正規労働者は主体的な生活を営むには程遠く、自己責任という言葉の独り歩きで見捨てられていることなど、目を背けたくなるような現実が紹介されていた。

他方、同じ映像の中には、かくのような現実を知ってか知らずか、洒落た装いの人々が無関心さながら街中を闊歩している。その落差に余計嘆息するばかりだった。

しかし、それらのことは突発的なことでも何でもなく、様々な要因が偶々この時代に過剰な化学反応を励起しただけとみることができる。政治の失敗、経済の失敗、道徳の失敗などが複雑に絡み合った結果に過ぎないということだ。

やり場のないフラストレーションが社会の最低限度である道徳や法律を容易に飛び越えて、極端な方向にドライブし、転落していく。無意味な殺傷、隣人愛の欠如、無関心。どれもが今年一年を象徴するキーワードになりうる。

このような状況に、政治、経済はひたすら無力である。経済を改善すれば暮らしが向上し、犯罪が減少するかもしれない。だが、絶対的な確約はない。ここ数年の好況といわれた時期は、生産性向上のために非正規雇用が犠牲を払った所産だといえるし、仮に景気が回復しても企業は再び非正規労働者に依存して生産性を高める方法しか選択しないだろう。

一体誰がどのように解決してくれるのだろうか。現代の高度な政治経済社会では、政治あるいは経済のみを取り上げて改善を図ることは、超高層ビルディングの一室を改装する程度に等しいだろう。それゆえに、複雑な層をなす問題を連立方程式に見立てるならば、二次方程式どころか、四次、いや七次方程式に値するような式を解答しなければならなくなる。

時にこれは神から授けられた試練なのだろうかと思う。人間の放恣、放埓に対する天罰なのだろうか。不可知論者である筆者は肯定したくないのだが、神秘主義的な表現をすれば、ロゴスを越えた実体ないし存在によって、あたかもアダム・スミスの「神の見えざる手」のごとき支配が人間社会を操作しているのではないかとさえ、勘繰ってしまう。

一介の市民である筆者は、画面を見つめながら、立式された複雑な連立方程式の解法を見出せず、歯噛みするだけなのだ。

神は救いの手を差し伸べるのだろうか。

PS 本年のエントリーはこれで終了です。この一年もアクセスしてくださいましてありがとうございました。皆様にとりまして、よい一年でありますようお祈り申し上げます。

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2008年12月21日 (日)

夕陽でも

最近は、麻生、田母神の両氏が大人しいので話題に困っている。仕方がないので、最近撮影した写真をエントリーすることで、次の機会を待つことにしよう。

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2008年11月23日 (日)

消え行く昭和の香り

高速鉄道の礎を築いた初代新幹線が今月末をもって引退する。

http://www.jr-odekake.net/navi/shinkansen/0kei/

広島への修学旅行や帰省のたびに乗車した記憶が筆者にはある。44年間の営業運転を終えようとしている0系を惜別の想いで見送ってきた。

曇天の関係でホームは薄暗く、やや暗い色調になってしまった。ホームは旅客の他に、記念撮影を求める人で溢れていた。

1枚目は、福山発新大阪行、こだま620号

2、3枚目は、新大阪発博多行、こだま639号

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2008年11月19日 (水)

ラン中

駅伝大会に出場してから、ひどい風邪を引いて最近は走っていない。

しかし、ランニングを再開したいという気持ちは日に日に強くなっている。それは、駅伝で思うようなイメージで走れなかった口惜しさもあるのだが、少しでも走らないと何となく身体が落ち着かないのだ。これがランニング中毒というものなのだろうか。

先日、仕事先の同僚から「あの日の結果はどうだった?」と聞かれ、周りのペースに流されて自分のイメージで走れなかったので、散々だったと返答したら、まだまだだなとコメントされた。彼も趣味でジョギングをしていて、年明け早々市民マラソンに出場するとのことだ。筆者も誘われたが、申込みの締切まで時間があるので、体調の具合をみて出場するか考えてみようと思っている。

仕事先の学生にも、駅伝チームを組んで出場しないかと声を掛けているが反応がいまひとつ良くない。面倒くさいというのではなく、規定距離を走破できるか自信がないということだ。それは何とかなるだろうが、走ることが面白いということ以上に学生を誘う理由には、ある教育効果を意図していて、ひとつには目標に対する継続的な努力を涵養させることと、もうひとつは連帯感を強めるということを筆者は念頭に置いているのだ。あと、脳の刺激にも繋がるだろう。

一本の襷をリレーして完走する充実感は若者の感性を刺激して、プラスの方向にシフトするのではないかと考えた次第なのだ。

ところで、駅伝に出場して気付いたことは、ランニング・フォームの悪さだ。客観的に判断してもらった訳ではないが、練習中に膝の痛みを感じたり、速度が思うように出なかったりということは、走る姿勢が悪いことを意味しているように思うのだ。

そこで、ランニング愛好者のための専門雑誌を買ってきて、読んでみれば思い当たる節が何箇所かあった。体調が戻れば修正に取り組んでみたい。そしてその雑誌を読み進めていくと、来月開催されるホノルル・マラソンに関する記事が掲載されていた。報道などでは知っていたが、ランニング愛好者にとっては憧れの大会らしい。

ところが、布団の中で読んでいたにもかかわらず、出場してみたらという悪魔の囁きが聞こえてきたのである。もちろん、まだまだ走力不足であることは理解しているし、トレーニングを積まないといけないのだが、ハーフを完走できるようになるまで走力を身に付けたら、エントリーしてみようという気持ちが湧いてきたのである。当面の目標は、3年後にしておこう。

先日駅伝大会でチームを組んだメンバーから「5キロ走ったら、10キロ走るようになる。10キロ走ったら、ハーフを走りたくなる。ハーフまでいったら、フルマラソンを目指すようになる。」と言われ、筆者は5キロで十分ですと苦笑したのだが、今更ながら、その言葉を思い出すのである。

さて、ひょんなことから走ることになったのだが、いつまで継続できるのか、ホノルルマラソンにまでたどり着けるのか、その可能性を試してみたいと思っている。

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2008年11月16日 (日)

無為無策な定額給付金

政府の新総合経済対策の一環として給付される定額給付金は、費用対効果という観点から意味があるのだろうか。多くの意見と同様に、筆者も懐疑的だ。それは給付される金額が妥当なのかどうか、それと年収1,800万円を基準にした支給対象がなにゆえにそうなのか、ということだ。

いずれも新聞やその他の論評で論議されているところだが、ここでは少々観点を変えて、いささか与太を飛ばすような話を書いてみたいと思う。

まず、支給金額のことである。既に報道されているように国民一律12,000円を基準に、65歳以上の者と18歳以下の者には8,000円を上乗せして20,000円を支給するという。人口構成がどのようなものか、総務省統計局が発表した「人口推計月報」を利用しながら支給額を構成してみたい。

これによると、平成20年5月1日の確定値で、0~19歳の日本人男女人口は約2,321万人、20~64歳の日本人男女人口は約7,493万人、65歳以上の日本人男女人口は約2,780万人ということである。統計のデータは5歳刻みとなっており、0~18歳までの人口を正確に知りえなかったので、計算上の誤差は容赦してもらいたい(だから、最初に与太を飛ばすと書いたのだ。)。

ここでは定住外国人も給付対象になるのかどうか分からないので、日本国籍保有者だけに給付されるとして、試算してみた。

0~19歳(実際は18歳まで):2,321万人×20,000円=4,642億円

20~64歳:7,493万人×12,000円=8,991億6,000万円

65歳以上:2,780万人×20,000円=5,560億円

総計は、1兆9,193億6,000万円となる。これは2兆円規模という報道と一致する。ただ、これだけではイメージが湧かないと思われるので、具体的なものに代入してみよう。

例えば、最新型新幹線(N700系)一編成(16両)が約50億円、関西国際空港一期工事費が約1兆5,000億円、政府専用機2機が約360億円ということのようだ。この例を探し出すだけで少々苦労した。というのは、身近で高額な商品をほとんど想像できなかったからだ。喩えるのなら、「帯に短し襷に長し」という具合だろうか。

国家予算に喩えるなら、平成19年度歳出予算のうち、社会保障費の中でも生活保護費にほぼ相当する(約1兆9,820億円)。ちなみに、同年の歳出総額は約82兆9,000億円である。

※平成19年度予算については財務省のHPで確認できる。http://www.mof.go.jp/seifuan19/yosan.htm

問題は、2兆円という配分総額もさることながら、1回限りという支給に基本12,000円という額の配分が適正かどうかということである。一世帯に高齢者や児童の同居者が多いほど受領額が多くなることが不公平であることを指摘したいのではなく、12,000円と算定した根拠が不明確なのである。

意地悪く評すれば、公職選挙法の脱法行為で、来るべき選挙に備えた自公の票買いだといえるし、偶々財源から調達できる最大額が2兆円で国民一人割りで所与の額としかならなかったので、それにしたという打算的な事情によるのかもしれない。少し調べたら、その辺りは分かるのかもしれないが、真剣に裏を取る気もない(読者の中でその辺りの事情を知る方がいれば、コメントを寄せてもらえると光栄である。)。ただ、1回の消費で霧散する額では景気対策にはなりそうにないと、素人ながら率直に思っている。

実際、ある番組の街頭インタビューでは、預金に回す、あるいは支払いに使うというコメントがほとんどだった。政府から支給される予定の金額では、消費に回せるほど十分でないのである。外食を一度すればそれで終わりという程度のものでしかないのだ。それならば、預金するか、目先の支払いに回すのが合理的という生活感覚上の選択が、先のようなコメントになるのだろう。ということは、これだけで費用対効果が期待できないのは大体想像がつくのではないだろうか。

国から給付金が支給されてありがたい、というよりは、寧ろ税金や年金掛金の不適切な運用で迷惑した「迷惑料」として受領するという見方をするのもありかもしれない。もっとも、これは極めてひねくれた見方であることを断っておこう。

給付金額の多寡には目を瞑るとして、一体この給付金はどこに消え、誰が最終的に得をするのかということも疑問である。本来は消費活性化のために支給されるべきものが消費に使途されなければ、カネ、そしてその交換物としてのモノが流通せず、誰が得をするのか、その構造は明瞭に浮かばないと思われる。

損得の構造が明瞭になるためには、国から給付金が国民に流れ、国民がそれをいかに活用するのかということに尽きる。2兆円という膨大な税金がどこにフローするのか興味がある。それはさて置いても、選択肢の一つとして国民が預金すれば銀行に給付金がストックされるが、それが新たな融資として十分に活用されるとは考えられないし(つまり、別の意味での景気刺激策とはならないだろうということ)、他方公租公課の支払いに回されれば、税を財源にした給付金は結局国や自治体に還流される。

あくまで与太話のレベルなのであるが、もし国や自治体が、租税や国民健康保険の徴収率を上昇させるための手段として給付金制度を編み出したのなら、権力による振り込め詐欺に他ならない。別の表現ならば、巧妙な還流ビジネスということだろうか。給付金が支給された後に、租税や健康保険の納付率が上昇したかどうかを知りたい気がする。もしある程度上昇したのなら、挙国的な振り込め詐欺は見事に成功したことになる。

ちなみに、筆者は現在住民税を滞納しているので、必然的にこの官製振り込め詐欺の被害者となることが予定されている。

さらに別の問題である所得基準とその判定作業である。年収1,800万円の世帯を基準に支給の要否を決定すべきとしているが、その決定は国策として行なうものであるにも関わらず、自治体に委ねるという、ゼネコンにありがちな面倒なことは下請けに押し付ける構造が現れて、杜撰としか言い様がない。嫌味を込めるならば、さすが土建業界に詳しい麻生セメントの元社長らしいということだ。いや、彼の政治手法は、丸投げあるいは下請けそのものかもしれない。

そして、混乱する自治体の多くは速断で一律支給するという態度を明らかにしている。効率を意識する企業人は、このような無駄作業を嗤笑しているだろう。

所得を判定する必要があるのかどうかは別にして、シンプルに考えられないだろうか。例えば、各世帯あるいは支給希望者に確定申告書の控えなど年収を証明できる書類を持参させて手続をさせたらいいのではないだろうか。いずれは税金の無駄遣いという結果を招来させるのが必然なのだから、窓口規制で必要とする国民だけに支給すれば、少しは国費の浪費を抑制できるのではないだろうか。高額所得者を支給対象から外すためには、税務情報の取り扱いに関する法整備が必要だとか、関西人から言わせたら「なに眠いことを言っとるんや。」という印象でしかない。

給付金を支給する要件として存在する所得1,800万円の世帯、あるいは国民が一体どの程度いるのだろうか。そもそも1,800万円という数字がどこから出たのか知る由もないのだが、所得税の最高課税額が1,800万円超で40%というところが根拠になっていそうな気もするが、当然与太話の域を出ない。

それで、年間所得1,800万円の就労者がどのぐらい存在するのだろうか。国税庁長官官房企画課が本年9月に発表した「民間給与実態統計調査」という報告書が参考になるので、これに依拠してみよう。この調査報告は、公務員や日雇い労働者などを除く民間企業の正社員を対象にサンプリング調査を行なったものであるので、データの完璧性は期待できないが、標本数が多いのである程度信頼してよさそうだ。

その調査報告書18頁に掲載された第14表は「給与階級別給与所得者数・構成比」と題されており、平成15年から19年分の男女別および給与階級別の表になっており分かりやすい。それによると、平成19年分で1,500万円以上の給与所得者は、調査対象総数4,543万人中59万8,000人と、全体の1.2%を占める。調査は500万円区分で行なわれたので、1,800万円以上の区分では推察に拠らざるを得ないが、ざっと55万人程度はいるだろう。いずれにしても、給与所得者のごく一部の部類しか該当しないということは明らかだ。

庶民的な感覚として、年間所得1,800万円もあるような国民に12,000円を支給する意味があるのか疑問だ。支給される側もそれほどありがたいカネとして受け取るようには思えない。

平等性を重視して実質的に一律給付の選択をとったことは賢明と思えない。ひとつには給付額が消費を喚起するには低いからだ。合理的な配分を考えるのであれば、国民所得の中心層を刺激して、購買意欲を高めなければならない。その意味で、年間国民所得が200~300万が平均と言われている時代にあって(実際、民間給与実態統計調査もそれを示唆している。)、高所得者層への配慮は抛り捨てて、低所得者層へ一律15~20万円の傾斜配分をしてもよかったのではないか。選挙対策を意識しているのであれば、それぐらいの大胆さが尚一層無ければ票を買えないはずだ。

支給額、支給対象者共に中途半端な政策立案で(誰が下らない入れ知恵をしたのか興味がある)、誰をターゲットに景気喚起の起爆とするのか、筆者はいまだに承知できない。

以上のことゆえに、ひとたび支給された給付金は、いずれ予定されている消費税の引き上げを代償に強制的に還付させられることだろう。したがって、支給するだけ税金の無駄遣いで終わってしまうという結末がほぼ見えているように思われる。

目先の金銭を選択するか、それとも消費税を引き上げられて生き地獄を死ぬまで見るか、それは各人の選択次第だ。自民党は、何かと口実をつけ次回の衆議院選挙を先送りにしようとするが、給付金ごときでは選挙に勝てないと計算しているのだろうか。

また、給付金詐欺という新たな犯罪ビジネスを生むことになるかもしれない。そうなると、今回の給付金で最も利得を貪るのは、給付金詐欺を目論む犯罪者達かもしれない。税負担せずして利益を上げる彼らは、まさに費用対効果を極大化できる存在として渡世していくのだろう。

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2008年11月14日 (金)

武官は黙して語るべからず。

田母神・前防衛省航空幕僚長が執筆した論文が昭和史の評価に関する議論を呼んでいる。「日本は侵略国家であったのか」と題された約7000字ほどの論文は、各方面で賛否両論の評価がなされている。

※問題の田母神論文は、以下のリンクまたは平成20年11月11日付の産経新聞12面にてアクセスできる。※

http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf

当の田母神氏は、12日付の朝日新聞(13版2面時時刻刻)の報道によれば、参議院外交防衛委員会で参考人招致され、自らの見解の正当性を主張したようであった。その点で、同氏のスタンスはぶれていない。

世間では、彼の見解が従来の歴史観を覆すものであり、また正当に受け止められないものであると、いささか感情的ではあるが、筆者は田母神論文を冷静に見ている。指摘のごく一部は首肯できなくも無いが、全体として捉えた時には、彼独自の歴史観以上に論文としての内容や構成に問題があると思われるからだ。

田母神氏の歴史観に対する批判は、11日付の朝日新聞(13版2面)に集約されており、昭和史に関する著作を何冊か読書した筆者もそれに同意しているので、反復することは省略したいと思う。ただ、そこで言及されなかったこと以外で筆者自身で気になったことを挙げておきたい。

まず、歴史評価に関して述べると、史実と評価を峻別しなければならないことである。日本では特に近現代史について、残念ながら客観的事実の発見というよりも歴史評価が先行し、それに押し切られているように思われる。客観的事実と評価は峻別すべきであるにも関わらず、政治家のみならず、ネット上の議論においても根拠が明白に示されないまま、感情的に乱暴な自説やイデオロギーを展開している説を目にする。この場合、事実から評価するのではなく、評価から事実を構成している。例えば、風説・伝聞・思い込みから全ては始まっているのだ。

「事実から評価すること」は見方の問題であり、様々な見解が存在していいだろう。しかし、「評価から構成すること」は、本人が意図せずとも虚構性が生じる可能性があり、史実に背くことにもなりかねないと筆者は考えている。

例えば、最近米国で話題になった従軍慰安婦問題について、その当時居合わせた当事者が公言しない限り真実は明らかにならないだろうと筆者は思っている。しかも、残念ながら当時を的確に語る者は出てこないし、況や高齢化により幽明相隔つ者が増えていることがそれに拍車をかけている。恐らく、日本の近現代史は、筆者の所感では闇に葬られたままで終わる部分が多いのではないだろうか。

話を戻して、従来の歴史観に一石を投じた田母神論文について、筆者は同氏の表現の自由、思想の自由を尊重するつもりである。しかしそれでも尚、田母神論文は歴史評価から自説を構成するという上記のスタンスに乗った感があるという印象を否めない。特に彼の主張部分を丹念に読むと、自説を強いものとするために先行研究を我田引水的に反復引用していることや、主張の根拠となる裏付け-特に日本で一般的に理解されている説を覆すだけの新証拠-を挙げていないことが批判されなければならないからだ。

また、主張内容の一方通行性から引用に際して自らその引用内容の真偽を確認するという手法がとられているとは思えない。与太話ではなく、真実を問う論文として公表する際には、徹底的に裏を取らなければならない。主張の基礎となる事実関係を他人任せで議論するばかりでは、物事の本質を見失う可能性が限りなく大きくなる。これは学問界の鉄則、いや温和な表現をすると、知識人のマナーである。

もし、彼がこのような主張を幕僚内部や居酒屋の席で行なったのであれば、筆者は与太話として取り合わないか、笑って聞き流すだろう。しかし、公にした段階で、田母神氏は政治で解決しなければならない問題に踏み込みすぎた。しかも、その議論による影響をどのように始末するのか、彼は道筋をつけなかった。まるで、太平洋戦争をどのような形で落としどころをつけるのか、当時の政権中枢や軍部が目算を立てずに泥沼化させたように、議論の着座点を見据えなかったのは、自らの意見を世に問うことを選択した同氏の怠慢であったと言えるだろう。

今のところ、中国や韓国などから田母神論文に関する公式の論評はないようだが、これを言質に外交問題と化した際に、同氏は如何に責任を果たすのだろうか、筆者にとっては更迭や辞職で決着をつけられない問題であるように思われる。

繰り返すようだが、田母神氏の主張を肯定できるかどうかは別にして、彼自身の表現や思想は尊重されなければならない。言論には言論で対抗すべきであって、言論ファッショと化してしまうことは避けなければならない。しかし、武官は政治領域に関心を払えど、無意味に立ち入るべきでなく、黙してその職務本分に専念すべきであろう。田母神氏は勇み足過ぎて、それに唯一失敗したといえる。

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2008年10月28日 (火)

馬鹿なのか、それとも真面目なのかという際どい話

過日、教育系のシンポジュウムに参加してきた。筆者は教育業に携わっているが、教育学とは無縁なので、本来シンポに参加しても得るところはそうないのだが、声を掛けて下さった同僚の顔を立て、付き合うことにした。主催者サイドからも懇親会だけでなく、シンポにも是非と懇願されたというのもある。

あまり気乗りもせず、午後からのセッションだけ傍聴したのだが、1階席だけで約580席あるうち、空席がかなり目立った。多くても150名、いや100名に満たなかったかもしれない。主催者が熱心に勧誘する理由も分からないでもなかった。そのような有様だったので、空席がかなり目立つ最後列席で筆者は転寝ばかりする始末であったのだ。

その後、懇親会にも顔を出した(本来はこれだけエントリーしていた)。同僚は顔が広く、別のテーブルに着席。筆者は、同僚以外に顔見知りがおらず、会場内で浮いた感じになってしまい、少々困ったのだが、幸いにもテーブルの同席者が気さくであったので助かった。

筆者の向かいに着席された方は、外見こそ硬い雰囲気を醸し出していたのだが、工業高校の教諭をされておられ、色々と興味深い話を拝聴させてもらったのである。A先生としておこう。聴けば、大学時代には核融合の研究を専攻していたようで、核の平和利用は省エネである一方で、環境への悪影響を思うと、マイナス面が多いと話されていた。

そこで、筆者が多少ふざけて、「はい、先生!人間のおならは燃焼するので、放屁を集積してエネルギーに転化することはどうでしょうか?例えば、街中に放屁ステーションを設えて、屁をバキュームし、提供者には金銭で還元するというのはいかがでしょうか?循環型環境システムの理想型であります。」と言えば、A先生は、牛糞から発生するメタンガスで実験されたことがあるが、人間の場合では食事に化学薬品が使用されていることが多いので、思うようにガスが発生しないかもしれないとする一方で、実用化が難しいという話ではないとも話された。

そこで、筆者はもう少し踏み入って、豆腐を製造する際に出る豆腐殻(おから)を無償で貰い受け、地中で発酵させることによって発生する地熱、ガスを利用しているNGOがあると話した。前者はビニールハウス栽培に、後者は燃焼させて炊事に利用するとのことだ。

他の例に、江戸時代には江戸の郊外から農家が川を越えて中心部の汲み取りをし、それを肥料に作物を栽培し、提供した家庭に作物を提供するというエコシステムが存在した。これは人間から排泄された余剰物を無害化するだけでなく、利用という発想があり、それを現代に応用することが肝心ではないかという見解を筆者は述べてみた。

注: 江戸時代の排泄事情については、渡辺信一郎『江戸のおトイレ』新潮選書に詳しい。

つまり、人間の排泄物でガスを発生させて、発電または発熱に応用し、バクテリアの力を利用して完全に残滓が残らないようにすれば、処理費用の低減に繋がる可能性があると筆者は考えたので、そのようにやや与太話とも判断されかねないことを、敢えて口に出してみたのであった。

富士山の山小屋では、クライマーの排泄処理が問題となっており、トイレットペーパーで山肌を汚している。そこで、一部の山小屋ではバイオトイレを導入し、バクテリアで排泄物を無害化するという試みも行なわれている。このようなことも念頭にあったのだ。

すると、A先生は「研究費がどれほどのものになるのかは別にして、研究価値はあるかもしれないですね。」と仰られた。

しかし、アルコールが手伝ったのか、話は思うも寄らぬ方向へ「暴走」してしまったのである。要するに、研究費を文部科学省からCOEとして引き出すためには、プロジェクト名を考えなければならないということになり、話を聞いていた同席者一同は、まさか子供たちが連呼してゲラゲラ笑う、あの言葉をそのまま使う訳にはいかないということでは一致していたが(ここで、ゲラゲラ笑う言葉とは、汚穢の幼児語のことを指している。)、可能なら婉曲的に表現することで済ませられないかと考えていた。

結局、もっともらしいネーミングが必要ということになり、今回のシンポジュウムを主催した大学の所在地名を冠にアルファベットを追加し、「○○UNCP」というのはどうだろうかということになった。"P"はプロジェクトを意味する。しかし、U、N、Cの各文字については説明を自主規制ということで容赦してもらいたいが、Kではなく、Cであるところが、汚穢を研究するプロジェクトとして直接表現でないことに最大の配慮を施している。それゆえに、会場内は割合盛り上がっていたのだが、それ以上に筆者のテーブルは、そのあるまじきネーミングに爆笑したのだった。

もし文部科学省にCOE申請する際には、アルファベットの各文字が何を指すのかは、敢えて説明せずに想像してもらうということで、オチを着けたのである。

いずれにしても、ネーミングの問題はあるにせよ、人間全体ではかなりの排泄物をエミッションするのだから、環境保全の観点から真剣に考えるべきではないかと思った次第だ。

かつて奈良県では一部の地域から出た排泄物をドラム缶に詰め込み、和歌山県沖に海中投棄していたことを考えると、それ自体汚染源となりうるのだが、発想を転換すれば有効資源ともなりえる。技術的な精度や実験を重ねていけば、いつかは実用化に漕ぎつけるかも知れないし、途上国にODA供与できそうだ。

今回の懇親会での内容は馬鹿げていると言ってしまえばそれまでかもしれないが、ユーモアで糊塗した環境議論は楽しいばかりで、閉宴の時間が早いと感じて、会場を後にしたのであった。

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2008年10月25日 (土)

お知らせ

ブログの仕様を一部変更しました。8時13分にアクセスしてみてください。0系がこのブログにやってくるでしょう。(笑)

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2008年10月24日 (金)

性急さと思いやりのバランス

先日、在来線での移動途中、乗車していた列車の発車がある駅で遅れた。車内アナウンスによれば、北陸方面からやってくる特急の車内で急病人が出たために、途中駅で緊急停車をし、その関係で在来線のダイヤも乱れるとのことであった。車掌は、列車の遅れが出ることになると最後に詫びていた。

筆者は、その日の仕事を終え、帰宅するだけであったので、遅れても全く気にすることはなかったのだが、隣に着席していた営業担当と思しき2人のOLは、忌々しそうに「列車が遅れるなんて、公共交通機関にあるまじきことよね。」と話していた。恐らく営業先に予定していた時刻に到着するかどうか微妙なところだったのであろう。

しかし、筆者は、彼女たちがした先の会話に耳を疑わざるを得なかったのだ。全く見当違いの発言だったからだ。そのひとつには、たとえ他人事であっても急病人を思いやれる気持ちはなかったのかということである。明示に意思表示をしなくとも、内心で「(彼または彼女は)大丈夫だろうか。」と思いやれる余裕すらないのかということだ。彼女たちは自らの都合だけを優先して腕時計に目線を送りつつ、「○○分までに到着しなければ遅れそうだ」と言う。

他人の一大事と自らの都合だと、後者が大事であり、それは当然のことだとみることは必ずしも誤りだとはいえない。しかし、急病人というのであれば事情は異なるように思う。命に関わる状況であったかもしれないからだ。もしそうであるならば、自らの都合がどのようなものであれ、全てはそれを優先しなければならない。

加えて、リスク・コントロールもできていない。いや怠っているのだ。セカンド・ベストを用意するのは社会人として当然のことであり、移動を伴うのであれば、たとえ食事の時間を削ってでも、早い目に行動するのが相手に迷惑を掛けない方法だ。また、ビジネス・パートナーとしても、「丁度間に合うように出発したが、想定外のことで遅れそうだ。」という連絡を受けるのと、「万が一のことを考えて早い目に移動したが、予見しない事情により遅れることになる。」と連絡を受けるのでは、心証が異なる。当然、後者の方が誠意に溢れている。営業のプロなら、迷うことなく後者を選ぶだろう。

もうひとつは、JRは果たすべきことをして、結果としてダイヤが乱れたのであって、それに異議を申し立てるのは無意味な批判である。事は尼崎の脱線事故とは全く異なり、今回の一件に関してJRに落ち度はないのは言及するまでもない。

結果的には、数分の遅れで列車は次駅に到着した。乗客は乗換えのためにほとんど降車した。彼女たちも同じだったが、その後どうなったのかは分からない。遅れが大幅なものではなかったので、間に合ったかもしれない。

ただ、筆者は、かような的外れの批判に地頭の悪い人間と乗りあわせたものだと乗り換えた列車の中で後味の悪い思いをしたのは言うまでもなかった。

PS 産経新聞取材班『溶けゆく日本人』は、過度に利己主義的になった日本社会を様々な側面から取材し報告している(記事の大抵はネットで閲覧できる)。これを読むと、「品格」という言葉は死語になったのだということが分かる。

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2008年9月29日 (月)

秋の夜長には、ジョギングとエレキのサウンドで癒しを得る。

秋の季節が深まってくると、何か物悲しい。ほんの最近まで「暑い」としか口に出なかったのが、そういう言葉を話すこともなければ、耳にすることもない。今年は異常に暑かったのに、去っていった夏が惜しく感じられる。我侭なものだ。

そうであっても、過ごしやすくなったので、スポーツをするにも、インドアで趣味を実践するにも、満喫できる。また音楽や読書などで内的充実を図るのもいい。

最近の筆者は、滅多にスポーツしないのに、久々にジョギングを始めた。というのも、11月に東京・立川市で開催される市民駅伝に出場するからだ。そのために日々自宅近辺で脚力を強化している。スポーツの秋といってしまえば、綺麗な表現だが、実際は5キロを完走できるかどうかまだ自信がない。

幸いにも山間部を拓いた住宅街なので、アップダウンが激しく、鈍った我が脚を鍛えなおすには好都合なのだが、普段使っている筋肉とは違う部分を使うので筋肉痛にいささか悩まされている。勾配のきつい道であることを考慮しても、1キロ半も走れば息が弾む。実際は平坦道を走る予定なので、自宅周辺を3キロ持続して走ることができれば当日は問題ないかもしれない。ただ、チームメイトには迷惑を掛けられないので、当日は「練習不足で…」とあらかじめ言い訳をしておきながら、しっかり練習だけはしておきたい。

また、聴きたいアルバムを見つけたので、パソコンで再生しながら作業している。山本恭司というアーチストを知っているだろうか。ハードロックが好きな人なら、一度はその名を耳にしたことがあるかもしれない。

Yamamoto_kyouji

"Healing Collection"と題されたアルバムは、彼が過去のアルバムの中から「癒し」をテーマにコンピレーションしたものである。普段の彼はハードなギタープレイングでオーディエンスを魅了するのだが、またディストーションが効いたメロディアスなプレイも伸びやかで、フレイジングで真似をしてみたい箇所もあり、ギターファンには必聴といえる。

こうして、11月まで走り、Healing Collectionをヘビー・ローテーションする生活は続くのである。

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2008年9月28日 (日)

舌足らずで、思慮深くない政治家に嘆息する。

新政権が発足したばかりであるのに、早速失言で辞任する大臣が出た。彼の妻が重責を果たして評価されているにもかかわらず、夫はそれとは正反対に人間的な底の浅さを世間にまざまざと見せつけ、さぞかし妻は身の置き所に困るだろうと思う。

一般感情としては、彼の所作は愚かしいとしか表現できない。しかし、愚かしいだけで済ませてしまうには、同じ轍を踏むばかりである。

なぜ政治家の失言が止まないのか、個人的な資質が主だったところにあるのだろうが、それ以上に政治家の無知・無教養が政治家であるという特権意識と相俟って、増長させているのではないかと思う。口悪く表現すれば、バカ丸出しである。居酒屋でくだを巻く酔客と、それほど知的水準は異ならない。

多くの政治家は、その経歴だけを見れば、華々しいものばかりである。しかし、それに実質が伴っているかと言えば全面的に肯定することは難しい。政策立案能力や実行力、あるいは権力を使ってでも国会を纏め上げる能力に長けている政治家がいる反面、選挙という形式的な儀式を通過しただけで、議場の席を暖めているだけの政治家もいる。筆者は、後者を「亡国の輩」と位置づけている。

件の大臣は、子供たちの学習力と関連付けて日教組批判を確信的に繰り返したが、それを主張するならば、その因果関係を立証しなければならないのは彼の側にある。しかし、彼はそれを完全に怠った。何一つ説明できない政治家は失格の烙印を押されても当然である。

およそ政治家は国民に対して論理的に説明を果たすことによってその職責を果たす。有権者の誰もが一応納得できる形で、国の方向性を言語という手段で尽くさなければならないのである。

失言を繰り返すような政治家は、国や国民を不幸な方向へ導く。なぜなら、無能な政治家を選出することによる代償は、我々が負担しなければならないからだ。有権者は、情実や地縁で一票を投じるのではなく、真剣に考え、信託する態度が必要だ。引退議員の子息が政治能力を買われるのではなく、票をただ承継して当選するという有様では、決して我が国の政治が良くなるとは到底思いつかない。

入学試験をパスしなければ、学校に入学できないように、政治家にならんとする者についても「政治家検定」を課し、歴史知識、社交マナー、演説・論理能力、規範遵守、危機管理などを論述させ、それをクリアしない者には「被選挙権を有せど、立候補できず。」という仕組みを整えてはどうだろうか。そうすれば、無能な人間は淘汰され、些細なことで政局が揺れ動くこともなかろうと、民主主義懐疑論者である筆者は、キーボードの前で呟くのである。

追伸:我が国に未来はない。未来があると値する価値体系が存在しないからだ。筆者は、国を憂い、未来を憂う。そして、我が非力さを嘆き、静かに本を開き、我の世界において沈思黙考を繰り返すのだ。

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これだけは纏めておきたい仕事

来年から裁判員制度が運用されることとなり、それに関係して、あるテーマについて学術的に書こうかと準備をしている。あるテーマとは、まだ原稿が完成していないのと、先に他人によって公表されると意味がないので、明らかにはできないが、国策的制度として司法界の流れを変えるこの制度を批判的に捉えてみたい。

そのために、個人的な関心で読んでいた書籍、新聞記事を整理している。まだ、追加で読まなければならないものもあるので、書籍の注文やデータベースで論文検索などをしなければならない。

このような作業は、数年ぶりのことなので、検索などで勘が狂ってしまい、時間を要することになるが、他方で発見と知的探索を得られるという悦びもある。この悦びをまた味わいたいという気分が起こってきたのである。誰に読まれるわけでなく、誰の命を助けるわけでなく、また誰の人生に影響を与えることもないのだが、ただ自己の満足のために、思索の世界に身を沈めたいのだ。

筆者は、医者でなければ、法律専門家でもなく、また夢を与えるような創作家でなければ、況や国家の命運を握る政治家でもない。ただ、話すという形に残らないことを生業としている人間だ。筆者が書いたことによって、何かが変わるわけではない。ただ、砂浜に足跡を残すだけだ。そして、それはすぐさま打ち寄せる波できれいに消されてしまう。どれほど有名な人間であっても、時の経過と共に忘却の彼方に追いやられるように。

しかし、誰かがやらねばならない仕事もある。その仕事を行う適任者であるか否かは分からない。適任かどうかは、外部評価を受けることで客観的に審判されなければならないが、主観的には自分自身で行なわなければならないと思うばかりだ。

現実的には、生活の糧を得る作業と並行しなければならないので、集中的な時間をとりにくいのだが、できれば来年の初夏までには纏め上げたい。まだ、粗いデッサンしか構想していないが、徐々に具体化するだろう。バベルの塔(実現可能性のない架空の計画)に終わってしまうのか、ピサの斜塔(完成しても中途半端な仕事)になるのか、それともエッフェル塔(時代を超えて存在する仕事)となるのか、筆者自身にも予測はつかない。少なくとも、自分の頭で徹底的に考え、他人の言説を弄するだけの仕事をしないように取り組んでいきたい。

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2008年8月15日 (金)

終戦記念日

毎年、8月15日になれば、63年前に破滅的な終焉を迎えた日は一体何だったのかと思う。最近はメディアも堂々巡りの議論に飽きたのか、終戦の意義を派手に再評価しなくなったが、未解明、未解決の問題が山積していることには変わりない。

ところで、先日、ある会に筆者は招待された。こじんまりとした会ではあったが、その中に真珠湾に出撃し、米国艦船を爆撃した元日本海軍の参加者がいらした。その方としばらく歓談するという思わぬ機会を持てた。現在では、当時の作戦に直接参加した存命者は数名しかおらず、そのうちの一人である。

彼は言語明瞭、頭脳明晰で、筆者は限られた時間の中で率直に質問を立て続けに投げかけたのだが、戦争に駆り出された兵士から見たときに、あの戦争はいかなるものだったのか、最も関心があったことを訊ねてみた。そうすると、米国の物量を侮ったことと、夜郎自大でどのようにして戦争を終結させるかの見通しを全く立てなかったことを挙げ、それが敗因であると語られた。

筆者も昭和史に関心があり、以前から様々な著作に接してきたが、筆者の見解と全く同じであっただけに、我が意を得たりという思いであった。

もちろん、彼は戦争を美化していないし、日本の正当性を主張したわけでもない。あくまで太平洋戦争を一兵士から評価した時に、現場感覚で率直に語っただけだ。

戦争責任をどのようにして負うのか、この側面から見たとき、日本は8月15日から時間が停止しているように思われる。対外的に敗戦したから責任を負うべきだというのではなく、戦争をしなければならない方向へ事態を故意に進めていったのが誰なのか、そしてその過程を明らかにしなければ、いくら東京裁判のパール判事の見解や昭和天皇の言葉を引き合いに出しても、責任の所在をたらい回しにするだけで、余計に事を曖昧にするだけだ。

このまま時間が無駄に経過していくだけの記念日となり続けるのだろうか。

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2008年8月 8日 (金)

初盆を迎える前に -後編-

真夜中の病院に搬送されてから、その後の詳しい記憶があまりない。

搬送後しばらくして、父の弟夫婦と母の姉夫婦が駆けてつけてくれた。救急処置室の中で横たわる父の周りを6人で囲む。まだ身体がほんのり暖かい。しかし、何も出来ずに立ち尽くす。

筆者はいったん自宅に戻り、母に持参するよう頼まれた着物を持ちだし、再度病院に戻った。この着物は、亡き祖母が息子である父のために縫い上げていたもので、久々に押入れから引き出したら黴臭かったので干していたものだった。着物の柄は古臭く、聞けば結婚当時のものだという。しかも、干す時に「わしが死んだら、これを着せてくれ。」と言って、その2日後に他界するとは、そのような運命にあったのかもしれない。偶然とはいえ、まさかそれを着せることになったのは皮肉なことだった。

その間に、心臓が悪くなって以降通院していたクリニックの医師が検死確認を済ませていた。

病院では、警察官に発見時の事情聴取が30分程度行われ、まるで容疑者のような疑似体験を経験したのであった。もちろん他殺ではないので、警察官の質問に答え、それに基づいて調書が書き上げられるというものだ。

それが済んでもまだ連れて帰ることが出来ない。暇を持て余して、駐車場と処置室をうろうろと歩き、煙草をくゆらせるだけの時間が無駄に過ぎていく。霊柩車の手配が済んで、自宅に連れて帰ってきたのは未明のことだった。

自宅には、自分の寝室に横たわる父、母、筆者と3人だけになった。部屋にはハンガーに丁寧に掛けられた衣服が所在無げにぶら下がっている。意識は多少朦朧とする一方で、眠ろうにも眠れない。

しばらくして、事情聴取をした警察官とは別の警察官が調書を持参して、署名捺印を求めた。一応筆者が書いたという形式になっていて、約10箇所にわたる誤字の訂正印も押印しなければならなかった。一読して異議もないので、すぐに押印した。2人の警察官は、風呂場の様子を見たいというので、案内すれば、浴槽のサイズと水深を測り、「お湯の温度と水深はこのままですか?」と質問しながら、図面を作成していた。その時間は約20分ぐらいだっただろうか。

彼らが帰り際に「生命保険に入っていますか?」と突然問うてきたので、筆者は保険金殺人を疑われているのかと狼狽し、「保険関係のことは母がしていますから。」と返答すると、それを察知したのか、警察官は苦笑いしながら、「保険金の請求には医者の書いてくれた死体検案書と我々で記入する検死証明書が必要なのですが、保険の加入先にはコピーで結構ですから、原本を提出しないようにしてください。再発行は出来ませんので。」と助言してくれた。

簡単な実況見分が終わってから明け方だっただろうか、葬儀屋、そして陽がすっかり明けてから寺の住職も来た。もうその頃になると、時間感覚がなくなっていた。葬儀屋とは式一切のプランを相談したが、プランの選択に悩み、結局一番安いプランを選択した。カタログでは祭壇が貧相に見えたが、親戚から盛大な献花があったので、実際には安っぽく見えなかったのが幸いだった。

寺については、伝手がなかったので、叔母に頼ることにしたのであるのだが、住職へのお布施で再度頭を悩ませることになったのである。というのは、戒名代の交渉をすれば、思った以上に高かったのだ。思案していたところ、大居士、居士、信士という戒名の位号(ランク)に応じて値引きするというではないか。僧侶としては事情を汲んでくれたのかもしれないが、「払えないなら値引きする。」というニュアンスが商売がましく聞こえ、それなら駆け引きしないでもよいではないかと不信感だけが募った。

しかし、今更他の僧侶に頼めるわけでなく、通夜と葬儀を取り敢えず依頼することになったのである。

結局一睡もせずに夜を明かし、親戚への連絡、銀行に赴いての預金口座の解約などに追われていたように記憶している。覚えているのはそれだけで、自宅で何をしていたのかは全くといっていいほどに頭の中に何も残っていない。買物などで外出している間に葬儀屋が祭壇を設営するという具合だった。

その頃には夕方前になっていて、湯灌と納棺を済ませると、父が生前居室にしていた8畳の部屋が葬祭会場となり、一夜にして様変わりしたのである。納棺には煙草、湿布、常用薬を入れてあげようとしたが、湿布だけは許されなかった。荼毘の際にゴミになるらしい。

棺の中の父の顔は薄化粧されていたが、地黒であった実際の顔とは違い、肌色が明るくなっていて、いささか薄気味悪かった。しかし、一晩前まで生きていた父は、微動だにしない。

通夜、葬儀は親族のみで行うつもりであった。父が勤めていた会社には連絡しなかった。生前、父は連絡不要と話していたからだ。狭い自宅の中には両家の親族で人熱(ひといき)れとなり、座るスペースすら十分でない。近所からも多くの人が弔問にやってきた。玄関に提燈が吊られ、看板が立て掛けられていれば、父と縁があろう方はやってくるだろう。実際、父は近所の方々とそれなりにコミュニケーションがあったらしく、「うちが引っ越してきた時には~」とか、「うちの娘が~」ということを話されていた。

その晩、かなり強い勢いの雨が降ったのは覚えている。この雨と同じくらい筆者も感情的に涙が頬を伝った。

告別式の当日は、前夜とは一転して清々しい好天となった。翌朝偶々玄関先に居ると、通学中の小学生2人が看板を見て「あっ、ここのおっちゃん死んだんかな?」と話していた。小学生にも遠慮なく声を掛ける人物だったので、小学生にも顔が知られていたのだろう。

前日の右往左往ぶりとは異なり、親戚が茶菓、食事の用意をしてくれたので、来客の応対以外でほとんどすることがなく、昼からの葬儀を待つだけだった。

そして予定通りの時間に葬儀が始まった。読経、焼香と済ませると、あとは棺を完全に閉じて、もうそれ以降顔を合わせることができなくなる。遺体に献花を手向けようにも、胸に詰まるものがあって、躊躇われた。母は泣き崩れている。半年前に父が我が母の棺でそうしたように。

筆者は父に声を掛けようにも声が出なかった。筆者の傍に居た甥の耳元で囁き、甥に気持ちを吐露させたのである。「おい、起きろ。いつまで寝てるんや。早よ起きて、僕のために味噌汁を作れ。」と。そのようなセレモニーも本当に僅かな時間しか与えられなかった。名残は尽きない。いや、尽かせようにも尽かせられない。

出棺後、荼毘のためにそのまま斎場へ移動した。もうこの頃になると多少の諦めもついてきた。何をどうやっても時間を戻せないのだ。荼毘を止めさせることはできないし、寸劇のように「実は生きていました。」とオチをつけることもできない。

炉の前で読経し、今生の別れが否応にもやってくる。扉を閉めた時、昨年他界した祖母の時と同じシーンを思い出した。次に開扉した時には変わり果てた姿となっているのを想像すると、やり切れない思いがした。実際、収骨の際には、大柄だった父が台座の上で骨と化したのだから、全てそこで昇華されたというか、ピリオドを打ったというか、もう涙を流す力すら筆者には無かった。

小さな骨壷に収骨した後、筆者はビニール袋をポケットからこっそり取り出し、台座に残された骨を親戚の眼を盗んで幾つか拾った。庭作業が好きだった父を庭に帰してあげたいという気持ちがあったからだ。散骨をしようと考えていたのだ。

大きな膝関節、太い大腿骨を見ると、体格がいかに良かったかが分かった。祖母の骨格もしっかりしていたが、父はそのDNAを引いたのだろう。しかし、それらは袋に収まらず、そのまま斎場で他人の遺骨と共同供養される分に回さざるを得なかった。せめて墓が大きければ、大きな骨壷に全部収骨できただろうに、それが少し悔やまれる。

初七日は多分その日に済ませただろう。手帳を繰ってみたが、メモが残されていなかった。都会では告別式、荼毘、初七日を同日に済ませるのが一般的だが、父の田舎では律儀に週ごとに逮夜を行っていた。父は毎週車を運転して通っていたが、それも身体的に負担だっただろう。

我が家に降りかかった突然の不幸は、本当に慌しかった。自宅の中は散らかり放題で、特に2階は1階にあった物を放り投げるようにして上げたので、まるで泥棒が家中を物色したような感じになっていた。

母はほとんど睡眠をしてなかったので、顔はやつれ、不安定な精神状態となっていた。時折、「寂しい。」と呟き、さめざめと涙を流していた。筆者はそれを見て、どうしたらいいのかと悩んでしまうこともあった。

しかし、心が折れそうになる日はこれで終わりではなく、ここから四十九日までがそれ以上に大変だったのである。

父の田舎は冠婚葬祭にはうるさい。それは昨年の祖母の一件を見ただけで十分なほど分かった。四十九日も家族だけで済ませるという具合にはならない。とかく面子を重視する田舎では、都会であろうとも、田舎に配慮した形式が求められるのである。

とにかく、新たに紹介してもらった寺に事情説明も兼ねて挨拶することから始まり、案内状と礼状の作成、満中陰御礼の品定め、仏壇の選定、香典の整理など、毎週何かをしていた。特に、御礼の品定めは、かなりエネルギーを使ったように思う。最近は、カタログ・ギフトも利用されているようだが、父の田舎にはそのような簡便な手法は通用しないのだ。品をきちんと手渡すことが肝心なのである。母は頻繁にあちらこちらの店に通い、適当なものがどれかを探していた。

本当に父が他界したのを忘れさせられるぐらいの細々とした作業をこなしていかなければならなかったのである。業者に任せたら幾許かは手間を省略できたかもしれないが、無駄な出費を抑えたいという事情から二人で相談しながら事を進めていったのであるが、正直なところこれほど面倒なことはなかった。できれば、手間を掛けることを極度に嫌う筆者にとっては、二度と経験したくないことだ。

それでも、仏壇の開眼供養と併せて、四十九日を無事済ませることができたのは何よりだった。父の会社の方にも来ていただこうと声を掛け、列席してもらった。父の意向に反して、内緒にはできないと思ったからだ。

享年七十一歳の父が今までどのような人生を送ってきたのか、筆者は詳しくは知らない。だが、自分が貧しい少年時代を過ごした反動もあるのか、よく遊び、そしてよく働いていたようだ。筆者はその辛さを知らないが、少なくとも食べることに事欠かず、伸び伸びと生活させてもらったことには本当に感謝している。親孝行もままならなかったが、それは筆者があの世に行った時に現世で果たせなかった分まで果たそうと思っている。

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2008年7月25日 (金)

初盆の迎える前に

父が他界して2ヶ月以上経ったが、父は昨年11月に他界した自分の母の後追いをしたのだと、信じて疑わない。

祖母が亡くなった時のエントリーにも書いたような記憶があるが、戦争で極貧家庭に育ち、相当苦労した話を聞いたことがある。筆者は、祖母と話す機会を多くもたなかったため、その当時の様子を断片的なことしか知らない。父も多くを語りたがらなかった。語る言葉を持たなかったのか、それとも辛い記憶を蘇らせたくなかったのか、今となっては知る由もない。

いずれにしても、十分な学校教育を受けず、田舎で丁稚働きのようなことをしていたようだった。それに嫌気が差したのか、父は長男であるにもかかわらず、母を信楽に残して、大阪に出た。

大阪では大手の化学会社に就職したが、義務教育卒業、つまり学がないゆえ、役員の運転手から会社員人生をスタートさせたようだ。社会人野球もしていて、捕手がポジションだった。その後は運転手から営業に回され、名古屋、福岡支店でも勤務した。

福岡支店で事務をしていた母と知り合い、筆者と兄は博多で生まれた。福岡時代の父は、支店の階上が寮だったこともあり、生活費を気にせず、毎晩中洲で遊び呆けたようだった。その遊び癖は定年を迎えるまで続いたのであった。ストレス解消というよりは、一度身に付いた悪い習慣だったと思う。

筆者の兄が誕生した時は、遊び過ぎで身体を壊したのか、重い腎臓病で闘病生活を送っていた。筆者の時は、会社をサボって鹿児島でゴルフに勤しんでいたとのことだった。ゴルフ場の支配人が父の名前を連呼しながらコースに現れたようで、父は何か不幸なことがあったのかと訝ったようだ。子供が生まれたと聞いて、恐らくそのままプレーを続けたと思う。えひめ丸事故では緊急時であるにもかかわらず、森喜朗内閣総理大臣(当時)が事の重大性を認識せずにプレーを続けたように…。もちろん、父がプレーを続けたことに恨みも何もない。父らしいからだ。

福岡から一家で大阪に戻ってきた後、父は理美容器具の卸会社に転職した。筆者が小学校の時だったと記憶している。その会社は大阪にしかなく、そこから全国に出張する具合だ。父は九州担当として約30年間九州一帯の得意先を営業する役割だった。

小さい会社ながらも父の営業成績は良かったようだ。しかし、「よく学び、よく遊べ。」ではないが、よく呑んで、よく麻雀をしていた。残業のない会社なので、定時には余程のことがなければオフィスには誰もいない。しかし、父は出張で不在でない限り日付が変わる前までに帰宅することはなかったように記憶している。

ただ、居場所は推測できた。会社の近くにかつて芸妓さんだった老婆が経営する、たかせという雀荘で卓を囲んでいたのである。メンバーは会社の同僚や会社の対面にある別の会社の従業員など。大阪に居る間は、十中八九そこに居たのである。ちなみに、たかせは経営者の老婆が亡くなった後、相続人がなく、収用された。父は、たかせから場所を移し、別の場所で性懲りもなく麻雀卓を囲んでいたのは言うまでもない。

もうひとつ、面白いエピソードを紹介しよう。今から約20年前のある日、祖母が信楽から遊びに来た。予定日よりも1日早く来たのだが、父はそれを知らず例の通り遊んで帰ってきたのである。そして、深夜に帰宅すれば、我が母が起きて待っているではないか。父は祖母の姿を見て、目を見開き、「どうしたん?明日来るという話やんか。」とかなり驚いていた。あの表情はいまだに忘れられない。翌日だったか、炬燵に筆者、父、祖母が座り、祖母が「邦昭よ、お前毎晩あんなに遅いんか?毎晩家族を放っといて遊んでいるんか?」と説教を始めたのである。これは見物だと、筆者はニヤニヤして聞いていたら、父がバツ悪そうに「お前のことや!」と話を逸らした記憶がある。

そして、帰宅は社用車。ガソリン代、高速代は全て会社負担である。車庫が確保できないからと雖も、私用がここまで許される鷹揚な会社だったといえる。毎夜、深夜帰宅しては、渋滞が嫌だからと早朝出勤し、喫茶店でモーニングセットを食べるという、その生活スタイルに家族一同はよく過労死をしないものだと変に感心していた。

そのような会社員生活を30年も続けたのである。ただ、就寝中は鼾や唸り声を上げていたので、身体には相当負担だったと思う。それが結果的に寿命を縮めた原因となったのであろう。

会社の中ではどのように振舞っていたのか詳しく知らないが、役員まで務めたのだから、それなりに貢献していたのだろう。特に、社長と相性が合ったみたいで相談役となっていたようだ。筆者が大学院に合格した時には、我が事のように喜んでくれたらしく、祝儀まで頂戴した。その社長も会社の経営が不安定になってから精神的に不調を来たしたことを理由に職を退いた後、入院し、間もなく他界された。父は、不可解な流れに社長が病院によって殺されたのではないかと疑っていたのを覚えている。

そうして父は7年前に定年を迎え、会社員生活にピリオドを打った。会社の経営難に退職金が支給されるのか心配していたが、無事支給された。しかし、その後に退職した方は父より長年勤務したにもかかわらず支給されなかったようだった。小さい会社の屋台骨を支えてきた功労という意味での退職金なのだろう。

定年後の父は、暇を持て余しては家族には内緒でパチンコに出かけるなどしていたようだ。ただ、当時兄夫婦も同居していて、孫ができてからは孫の世話を焼くようになった。ぐずる孫を寝かしつけるのは父の得意技だった。この頃になると、家事をするようになり、やっと家の中でのポジションを見つけたようだった。

料理はあまりしなかったが、掃除、洗濯、庭仕事など、暇を持て余すのが罪悪であるかのように動いていた。散らかっていたり、汚れているのが嫌いで、こまめに拭いたり、塵を拾い上げたりしていた。

兄夫婦と別居して、少し余裕が出来ると、小遣い稼ぎにシルバー人材センターに登録し、犬の散歩、観光客の誘導、温泉の清掃をしていた。田舎の人間なので、誰とでも打ち解けることができ、知り合いが多くなっていた。そのうち、派遣先からホテルのフロント業務をしてみないかと誘われ、直接雇用で夜間業務を担当していた。

この頃から心臓が急速に悪化し、無理をしていたのだろうと思われた。それでも家計と自身の小遣いのために働いた。幼い時から家計を助けるために働かされ、その習慣が身に付いていたのか、何かをしていなければならないという貧乏性の性格ゆえのことだろう。筆者は、「止まったら死んでしまう人だから。」と皮肉を込めて人には話してきた。

昨年、突然坐骨神経痛に悩まされ、宿泊勤務を辞めてしまった。再び自宅に居ることを余儀なく強いられ、元気がなくなった。加えて、自分の母を亡くしてしまい、余計に弱っていったように感じられたのである。

その後のことは、先のエントリーに書いたように、最期は余りにあっさりしたものであった。

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2008年6月12日 (木)

月命日

父が急逝して、初めての月命日を迎える。この一ヶ月は、想像していた以上に大変であった。それは、香典の整理、役所や保険会社に提出する書類の提出、銀行口座の整理、各種の名義変更、位牌・仏壇の手配、満中陰の準備など、毎日何かの作業を行なっていた。筆者は横から手伝うぐらいであったが、母は毎日どこかに出掛けては、メモを確認し、あたふたとしていた。

故人を偲ぶということは、好むかどうかに関わらず、脇に追いやられてしまう。

しかし、そうであっても父が他界したという実感が湧かない。それは余りにも突然逝ったからだろう。

あの日を思い出すと、たまたまタイミングがなかったのか、父とあまり話さなかったように記憶している。筆者が出勤前に「じゃ、行ってくるわ。」と話しかけ、掃除機をかけていた父は、筆者の顔も見ないで「はい。」とだけ短く答えた。それが昼前の会話。それまでには何を話したのか記憶にない。筆者が帰宅してからは家族一同で鍋をつつき、「刺身が美味い」と言っていたのを覚えている。後から聞けば、夕方には買物に行き、夕食の準備までしていたということだ。亡くなる当日でさえも普段通りなのに、亡くなることを誰が想像できただろうか。

夕食後、父が「風呂に入れよ。」と筆者に言い、それには生返事で答えた。それが最後の会話であった。5秒にも至らない、しかも気の利いた会話ではない。当然といえば当然だ。運命の終末が分かっていたのなら、自ずと会話の内容は非日常的な内容となるはずだからだ。本人ですら間もなく幽明相隔つとは思わなかっただろう。

そのようなありふれた会話を交わした1時間半後には、父は浴槽の中で寛ぐように息を引き取っていたのである。筆者は一目見たとき、寝ているのかと思ったぐらいだった。様子が変だと分かった時、筆者は父の背中から腕を回し、背後から抱えるようにして浴槽から出した。力が抜けてダラリとしていたはずなのに、なぜか引き上げることができた。助けなければ、という思いで必死だったはずだ。

その時に明瞭に覚えていたことは、恥をかかせてはなるまいと、下半身をタオルで拭い、下着を履かせていたことだ。母は救急隊員が来るまで何度も呼びかけ、人工呼吸もどきをしていた。間もなく到着した救急隊員による蘇生も間に合わなかった。「あと2、30分早ければ蘇生したかもしれません。」という言葉がむなしく響いたのである。

病院では蘇生措置らしいことはほとんどされず、毛布に包まれた父の姿がストレッチャーに横たわっていた。母に自宅から持ってくるよう頼まれた着物に父は着替えさせられていた。体はまだほんのり暖かい。連絡を受けた父の弟夫婦と母の姉夫婦が病院に駆けつけてくれ、6人で父を囲む。しかし、父は動きもしなかった。

死因は拡張性心筋症。享年数えで71歳。長寿化の時世を考慮すれば、まだ数年は生きていても別段おかしくないと思うし、同じことをよく言われる。ただ、2008年5月12日に、この世に別れを告げるという必然にあったのかもしれないし、そのように思わないと、こちらの気持ちが持ち堪えられない。

晩年は心臓を悪くしていたが、日常生活をこなすことには問題なく、しかも食欲旺盛だった。ただ、心臓の調子だけが不調だったのだ。母は、他界した日に「明日病院に行こう」と父に話していたらしく、1日遅れたことを後悔していた。

未明に霊柩車で自宅へ連れて帰り、本人がいつも寝ていた部屋に安置した。部屋には、ハンガーに掛けられた上着とシャツ。父は几帳面で、外出する時は部屋着からハンガーに掛けた服にいつも着替えていた。身支度は全て自分でしていた。そういうのを目にしながら、もうこれを着ないのだなと思うと、空虚な気分に襲われると同時に、記憶に留めたいと壁に掛けられた上着を写真に収めたのであった。

亡くなった直後までのことを書いてみた。記憶にあったことだけでも振り返ると、あっけない別離に、まだ父が亡くなったという事実を受け入れられないのが正直なところだ。7年前までサラリーマンだった時でも、自宅に居ることが多くなかったから、家に居ないことが普通という感覚がまだ残っている。

だが、数日前、父の夢を見た。

筆者と向かい合う父に、「お父さんが死んだなんて信じられない。祭壇があっても、目の前に居るから。」と話せば、父はムッとした口調で「祭壇があるのだから(とその方向を指差し)、ここに居ても死んでいるのだ。」という返事を寄越してきた。なぜ、そのような夢を見たのか分からない。遺族を諦めさせるためなのか、それとも父自身が自分自身を納得させるための言辞なのか、それとも現世に未練があることを教えに来たのだろうか…。

続く

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2008年5月31日 (土)

その後

仕事にも復帰し、父が亡くなる以前と変わりない状況に戻った。ただ、自宅の中には父がいないだけの生活だ。

人が亡くなった後も、手続関係でかくも多忙なのは、ひょっとして亡き人を忘れさせる、あるいは遺族が悲しみにくれないための作業かもしれないと思った。他界してからもう3週間が経つが、たまに父の訃報を知った方が連絡を下さる。そして、読経できない我が遺族は浄土宗の読経CDを毎日祭壇の前で流すのが日課のようなものとなっている。

三七日(みなぬか)の今日、近所の住職を招いて、読経してもらった。通夜、告別式で読経をお願いした寺から別の寺に変えた。なぜなら、前の寺は金銭の話が先立っていて、我々の感情を害したからだ。それはまた別の機会に書こうと思う。

今日、読経をしてもらった住職は、まだ50歳にはなっていないだろうが、同じ目線で話をする、非常に感じのよい方だった。最初から葬儀会社に依頼していれば、ここを紹介してもらえたということだったので、今更ながら後悔している。

四十九日までに仏壇を用意しなければならないので、デザインなどを検討中なのだが、昔ながらの仏壇で奥に個人をしまいこむのではなく、あたかも一緒に居るがごとく、リビングに据えられるようなタイプを探している。

当面は、法事と仏壇選定に追われそうな様子だ。

PS 久々に正座したせいで、足を痺れさせてしまい、立ち上がった際にふらつき、左足甲部を捻挫してしまった。情けないと思った次第であった。

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2008年5月21日 (水)

やっと復帰

父が他界してから、怒濤のような日が過ぎた。あの日から何をどうしたのか思い出そうにも、十分思い出せない。

しかし、何かを記録に残したいという自分の性格上、次回のエントリーから備忘録的な連載という形で、父の姿を残し、在りし日を偲びたいと思う。

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2008年5月16日 (金)

御礼

このたびは、父の葬儀に際しまして、お悔やみのお言葉ならびに遠方からの参列を賜りまして、誠にありがとうございました。

父もきっとあの世から感謝していると思います。重ね重ね御礼申し上げます。

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2008年5月13日 (火)

生前のお礼

昨日午後十一時、筆者の父が急逝いたしました。父が生前大変お世話になりましたことを、ここで厚く御礼申し上げます。

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2008年5月 7日 (水)

タイガース愛

今年の阪神は、今のところ連敗せずに非常に好調。ファンにとっては非常に気分がいい。

まだまだシーズンの序盤で予断を許さないが、優勝をモノにするためには、連敗をしないというのが大きな要素になるのではないかと、素人的な考えをもっている。このまま夏のロードを乗り切れば、ひょっとして星野阪神のように初夏にはマジック点灯ということもあるかもしれない。

過去、「ダメ虎」だと言われつつ、自虐的なファンに支えられてきたタイガースは、ここ10年程で飛躍的な変貌を遂げたと思う。星野仙一氏の功績は並々ならぬものがある。

その昔、キャンプで盛り上がり、今年はやってくれるぞと期待感を持たせつつも、シーズンで失望し、ファンはひたすら憂うことが続いた。オールド・ファンは、強くなった現在のタイガースであっても、やはり憂う。長年裏切られてきただけに、勝っても手放しで喜ばず、冷静にこのままで本当に大丈夫かと、懐疑的に応援をする。昔のタイガースを知る人間は、憂いを忘れないのだ。

たとえ流れ的に勝っている試合でも、選手の細かなミスを憂いながら応援をする。これが由緒正しいタイガースの応援方法なのだ。まかり間違っても、シーズンの趨勢が決定される前に、目先の一勝で破顔一笑させてはならないのだ。だから、若いファンが白星に歓喜する姿を見て、同じファンでありながら、彼らと微妙な間合いを取るのである。

時は今から二十数年前に遡る。筆者が中学生で、タイガースにはほとんど関心が無かった頃の話だ。当時、牛若丸と異名を付けられた吉田義男氏が指揮を執っていた。中学最終年のクラスにはY本という、異常なくらいの虎キチがいて、タイガースのことは桁外れに詳しかった。筆者は「そんなに好きやったら、阪神電車に就職したらええやん。」と冗談を飛ばすと、彼は工業高校を卒業後、本当に阪神電鉄に就職をしたというではないか。筋金以上の存在で、笑うに笑えなかった記憶がある。もし、彼が甲子園駅の駅員をしていたら、筆者は恐らくその徹底ぶりに敬服するだろう。

また、担任のY山先生も同じく虎キチで、タイガースが負けた翌日は非常に機嫌が悪く、テストの成績が悪かったならば、容赦のない体罰が待っていた。体罰規制がかかっている今では到底不可能なことだ。しかし、勝った日は恐ろしく生徒に甘かった。そのジキルとハイドというか、天と地獄というか、その両極端な有様に、当時受験を控えたクラスメートは、自分の将来以上にひたすら阪神の勝利を祈るという、入試よりも確率の悪い賭けに祈るばかりであったのだ。

Y山先生の名誉のために書いておくが、彼は教師としては絶対ブレない人物であった。許されないことは激しく叱責する一方で、結果は伴わなくとも努力を怠らない生徒には最大限のサポートをした。生徒には責任を伴う自由放任を徹底し、自ら律して行動することを示された。筆者も叱責する点は別として、ブレないところは模範としたいと思っている。

高校時代は「筋金」に出会うことがなかったが(隠れ筋金はいたかもしれないが…)、大学時代になると、やはり居た。中学時代のY山と比肩、いやそれ以上かもしれない。彼とは今でも音信があるが、現在勤務地である東京で職場の人間を巻き込んで、いや洗脳したのか、彼の周辺にはタイガース・ファンが多い。その彼もオールド派で憂いを忘れない、正統派のファンだ。

もう他界されたが、京都大学で長年教鞭をとられた高坂正堯氏も熱心なファンで、選手の移動日を講義日とし、中継のある日はテレビ観戦に充てたという話を新聞で知った。保守的論客として功名を馳せられ、他方で茶目っ気もある非常にユーモラスな方だった。

もっとも、全ての関西人がタイガース・ファンではないものの、タイガース占拠率が高いことは確かで、日頃個性を主張する関西人でも、タイガースとなれば、新興宗教の信者が熱心に経典を斉唱する以上に、聖地甲子園で応援歌や六甲おろしを斉唱するのである。その雰囲気は異様な盛り上がりだ。

徒然と第三者的な書き方をしてきたが、かくいう筆者も神戸に移住してから知らぬ間にタイガース・ファンとなり、公言こそしないものの、隠れ筋金かもしれないと自覚するようになった。なぜなら、テレビ中継を見ながら憂いている自分が居る、そのことに最近気付いたからだ。

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2008年5月 3日 (土)

憲法記念日

起床して、朝日新聞を読めば、憲法関連の記事が意外と少ないことに戸惑った。朝日らしく、世論は護憲派であるという一面記事ぐらいが目立っただけで、特集記事が組まれなかった。

テレビ欄もNHKも昼の時間帯に特番を組んでいるぐらいで、他局ではそれらしい番組の編成すらされていなかった。

世は、憲法改正議論に関心を失ったのか、それとももう食傷気味なのか、その辺りは分からないが、憲法改正国民投票法も成立し、数年先には改憲が実現する可能性があるにも関わらず、メディアの低調ぶりに落胆したのが正直なところだ。

護憲なのか、改憲なのか、その選択は一刀両断的に議論できないが、思うに現実に整合させるために解釈改憲をしてきたことには、もう限界が来ているのではないか。そのように考えると、改正することが現実的で、不可避なのではないかという視点に立たざるを得ない。

改憲は9条だけの問題に限定されたものではない。特に、25条に定められる生存権の保障は、昨今の社会情勢から、より国に法的義務を課した条文としなければならないだろう。

日常は安易な娯楽に走りがちだが、この日こそは日本の行く末を全国民で案ずる日であって欲しいと思うのだ。

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2008年4月20日 (日)

全知全能のパワーが欲しい

知識を蓄えたい、表現したい、社会の質を高めたいと思っているのに、全然力が足りない。自分自身を動かす原動力が、心の底から湧かない。

充満したマグマが噴火口から天を突き抜けるような勢いで放出される、そのようなエネルギーが身体の中から湧かない。一体なぜなのだろうか。

知ることはかなり遅いペースながらも進んでいる。しかし、表現することが全然できていない。精神的な機能不全に陥っている。

巷に溢れる数多の出版物に接し、自分の無力さを知る。たとえば、現代国家論について纏め上げようと、ある時期に出版物を読み、資料を収集していた。その最中、佐藤優氏が『国家論』(NHKブックス)を著された。それを読んで、愕然とした。決して大部ではない著作に、学理的な考察に止まらない縦横無尽の論が展開されていたからである。それで、自分自身のモチベーションは一気に落ちた。彼のように国際経験が豊富でない筆者が何を書いても、平板な内容に始終することは目に見えて明らかなことだったからだ。

自分自身にとって、大学を卒業してから今までの間、一体何だったのか。ただ、呼吸をして、食事をして、排泄をして、それで終わる。約20年弱の時間は、空虚なままに過ぎていたのである。

この時間を取り戻すことができるのか、それともこのまま過ぎて死んでいくのか、自分自身でも分からない。

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2008年4月19日 (土)

艱難辛苦我に与へ給え、とはいうが…

自分自身の努力や積み重ねによっても変え難い人生というのはあるのだと、何度も思う。

理想は高けれど、実生活は経済的にも精神的にも人並み以下の生活をする。この埋めがたいギャップに苦しむ。経済的に余裕があれば、まだ自分自身の人生が何らかの形で開ける余地がある。しかし、兵糧攻めに遭うと、廃人となるのは時間の問題だ。いよいよ今年からそうなりそうだ。

この世に生まれてこなければよかったなどと言うが、自分自身の意思で現世に現れた訳ではないので、かような言葉は意味を成さない。「生まれてこなければよかった」のではなく、「偶然現世に生まれ、自分の意思のある限りで生きてみたことが不幸の始まりだった」と表現するのが正しい。

それでも、主イエスは艱難辛苦を容赦なく与える。神という存在は皮肉だ。我を苦しめて殺す気なのか。ならば、艱難辛苦を与えるのではなく、死という天罰を与えてくれた方がいい。今の自分は消極的に生きているだけで、天罰を受ける覚悟はいつでもできている。

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2008年4月13日 (日)

無題

仕事で日々東奔西走するような日々を過ごすと、休日はその反動か、あまり外出しない。私用で外出するにも、心の準備から必要となる。多くの人は、趣味やそれ以外の何かに興じて、リフレッシュを図るのが普通だろうし、筆者もあれこれしたいと思うことはある。しかし、実際には疲労感が休日に押し寄せ、そのせいでテンションが下がってしまい、思うようにはならない。平日の方が寧ろ時間を潰すことができ、気持ちも幾許か紛らわせることができる。

平日の移動は公共交通機関の利用が多いので(今年度はそうともいかないような感じだが)、読書または人物観察をしている。自分自身は大した服装をしていないのに、他人の服装を見て、流行をチェックしてみたり、他人の会話に耳を傾け、自身の思考やこのブログのネタにしてみたり、と余り退屈しない。

読書は、主に政治や外交などの時事系の出版物を選んでいる。仕事に必要だからというのが理由だが、高校時代から社会問題を扱ったドキュメンタリーを好んで読んでいたから、その延長線上というのもある。高校時代は何となくジャーナリストになりたかった。文学には余り縁がない。そのせいか芥川・直木賞作品にはほとんど関心がない。

偏見だが、最近の受賞作品は現代の時流から見れば必然なのかもしれないが、内容が軽薄で、文学としての重みがないと感じている。最近は人間とは一体なんたるやということに思いを巡らすようになりつつあるので、人間の精神の本質に肉薄した作品なら、時間の許す限り読むかもしれない。いずれにしても、読書をして様々な知識を吸収する時が一番リラックスしている。

ちなみに、今まで読んだ文学の中で忘れられないのは、夏目漱石『こころ』、森村誠一『人間の証明』ぐらいか。いずれも人間のエゴを題材にした作品だ。

しかし、インプットの読書とは反対に、アウトプットの教える仕事は非常なエネルギーを必要とされる。科目の準備ごときは大したことはない。学問の奥深さを理解させることにエネルギーが必要なのだ。近年の学生は学ぶことに関心がないという。それには色々な理由があるかもしれないが、学問イコール生きる力という構図が最早成立していないからだといえる。だから、誠実に学ばないし、当然知識も蓄えられない。立場上、学生を牽引していかねばならないのだが、それが消耗する。

時々、その消耗が激しくなり、何もかも打ち棄てたいと思うが、転職すらできない。年齢的にも、能力的にも、一般社会人の世界にコミットできるだけのキャリア能力はもうない。だから、そのまま最期の時まで、これをしなければならない。天職だとは決して思っていないが…。

ただ、この仕事をしていて楽しみだと感じるのは、年に何度か遠方に出張できることだ。今年の出先は福井だった。福井は昨年のエントリーでも書いたが、沈滞化するばかりの地方都市だ。北陸新幹線の開業を待ち望んでいるみたいだが、東京から数時間もかけて新幹線で来福するようなことは想像できない。無駄が多すぎる。

北陸新幹線のために改装された福井駅では、夕方になると、駅コンコースで地元テレビ局が中継をしている。番組のオープニングと途中の時間帯に設けられたPRコーナーをそこから生中継している。別に用もないのだが、そこに足を運んで、様子を見てみた。

そもそも夕刻で帰宅ラッシュの時間帯なのに、人通りは極めて少ない。中継内容もいまひとつ面白くない。そこで一計を案じた。それは我の姿を中継してもらうことだった。中継カメラの前に女子アナが立ち、そしてその5メートルぐらい後ろに筆者が立つ。もちろんカメラのフレームに必ず入るようにするため、彼女の立ち位置から少しズレたポジションを取る。

そうして、中継のタイミングを見計らって、清涼飲料水を一気飲みしてみたり、財布から切符を取り出して、「間違った列車の指定席を予約してしまった!」と言わんばかりのリアクションをしてみたりした。中継は必ずされているので、どれほどの視聴者に白々しい演技を印象付けることができたか、それが今でも気になっている。もちろん、中継の邪魔にならないように配慮したのは言うまでもない。

筆者は他人から真面目であると評価されることがあるが、それは正しくない。本当は気儘で、不真面目極まりない人間だ。ただ、その不真面目さはユーモアとなって昇華される。上のような話はその一例だ。

ユーモアで忘れる。これしかなさそうだ。

色々なことに思いを巡らせ、悩み、その場凌ぎかもしれないが解決していく。恐らくこのようなことを繰り返していくに違いない。

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2008年4月11日 (金)

新学期、始まる。

この時期は多少憂鬱になる。新学期になると、新入生を相手にしなければならないからだ。

物分りの良い、あるいは素直な学生が集まればこの上ないのだが、言語が通じない(言語学的にという意味ではなく、注意事項を伝えているのにその内容を理解できないという意味である。)、最低限のモラルを守らないなど、うんざりするような学生に出会うと、同じ空気を吸っているだけで心理的に耐えられないことがある。

一般的には、学力と社会性はある程度比例していると思われる。学力や知識が相応に高い学生は社会適合性も高いが、基礎学力に欠ける学生は決してそうではない。その中には、人間としての資質を疑うような者も僅かながらにいる。

筆者としては、良識ある人間と接したいのだが、最近はそうでなくなっているのが残念なところだ。

今年はどのような一年となるのだろうか…。

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2008年4月 1日 (火)

新たな一歩を踏み出す人たちへ

順徳者昌、逆徳者亡。漢書・高帝紀)

道徳に従って物事を行なう者は栄えるが、道徳に背いて行動する者は滅び、淘汰されていく。

モラル・ハザードが吹き荒れるこの時代に、その趨勢に加担して、社会を混乱に陥れる者はその存在価値を疑われる。決して法律や道徳に背くことなかれ。決して信を失墜させるような疑わしき振る舞いはするなかれ。決して身の丈に合わぬことをするなかれ。

論語訳参照:金岡照光編『中国故事成語辞典』(三省堂)

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2008年3月29日 (土)

歴史解釈

昨日、集団自決に関する裁判の判決が出された。裁判の当否について、ここで云々するつもりはないが(本来ならば、非常に sensitive な問題だけに担当裁判官は相当気を遣ったのではないかと思ったが、意外やそうでもなかったようなのが気になるが…。)、史実のどこまでが実在で、どこからが架空なのか、その判断の難しさをあらためてクローズ・アップさせたことは言うまでもない。

時が経過すればするほど、事件の当事者は幽明境を異にし、直接証拠は散逸するばかりである。尚一層、真相の究明は難しくなる。当時誰が何を言ったのか、後付けの記憶によって意図せずして歪曲される可能性すら否定できない。

ただ客観的に存在する歴史的な事実が、決定的な証拠の欠如のため、歴史家の判断に仰がれ、そこで意図的かどうかに関係なく、主観や評価が更に加味され、「そこにあった/なかった」事実が「そうであったはずだ/そうでないはずだ」という主観的評価に変質してしまう。これはあるイデオロギーを持った人間ならば、必然的に起こりうることで、ある程度は止むを得ないことだ。しかし、そこが客観性に真摯に向き合わない歴史評価の陥穽あるいは盲点だといえる。

残念ながら、日本における近現代史は、客観的事実の発見というよりは歴史評価が先行し、それに押し切られているように思われる。また、そうでなければ戦間期の昭和史の解明は大部分において困難となる。本来、客観的事実と評価は種別されなければならないのだが、政治家を始めとして、ネット上での議論を追ってみると、根拠が明白に示されないままに自説やイデオロギーが展開されている。この場合、事実から評価するのではなく、評価から事実(寧ろ虚構と表現した方がいいのかもしれない。)を構成しているのである。悪しく表現すれば、過去を創作しているのである。これらは大概において、風説・伝聞・思い込みから始まっている。

事実から評価を始めることは見方の問題であるので、様々な見解があっても差し支えないだろう。しかし、評価から史実を構成することは、真相の探求を怠り、史実に対する冒涜になるといえないだろうか。

日本の戦後処理のあり方を巡って見解が一(いつ)とならないのは、過去の清算に対するスタンスの違いがあるからだと筆者は思っているが、間違っても評価を先行させてはならないし、そして当時の関係者を糾問するような態度をとるべきではないだろう。そうでなければ、誰もが口を噤(つぐ)んでしまい、過去の闇に埋蔵されてしまう。

素人ながら、歴史の解明手法それ自体に誤りがなかったか、歴史家は方法論から再検討しなければならないのではないか、昨日の報道に接して最初に思ったことが以上のようなことであった。

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2008年3月19日 (水)

最近のアクセス

管理者だけが閲覧できるアクセス記録を最近分に限って参照すると、検索ワードからアクセスされているものが多い。

しかも時節柄、「送別の辞」で検索されている。アクセスされた方には申し訳ないのだが、恐らく参考になるような事を書いていないので、他を当られることを勧めたい。

もしどうしても困ったのならば、岩波書店の『岩波ことわざ辞典』、『岩波四字熟語辞典』、三省堂の『三省堂中国故事成語辞典』などのページをめくりながら、送別の対象となる人物のエピソードに合致するものがあれば、それに絡めるのがいい。間違っても、他人の借用はすべきでない。借用が盗用であるかどうかという以前に、見送る方が、呻吟せず、十分に心も込めていない言葉を送っても、見送られた方が迷惑なだけに終わるからだ。

いわんや相手に対する思慕の情が一片たりともなければ、そもそも送別の言葉を送るべきではない。

送別の言葉によって、相手との関係や想い慕う気持ちなど全てが分かるだけに慎重に言葉を選ばなければならないことが最重視されなければならないであろう。そうすることによって、何気ない言葉に重みと味わいが出て、相手の琴線に触れることができるのではなかろうか。

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2008年3月16日 (日)

出会いは別れの始めなり

人と出会うことは、その後がどのようなものになるかは別にして、歓迎されることだ。しかし、出会いによって築かれた絆が、あることを契機に薄れていくのは何とも表現できないぐらい惜しい。

筆者の小学校の頃にまで記憶を遡ると、教育実習に来た大学生が実習最終日にそのようなことを話していたのを思い出した(当時筆者とは10歳以上離れていたはずだから、今頃は…自主規制)。それが記憶から失せずに今に至っているのは、母方の亡祖母も同じようなことを話していたからだ。

昨日、筆者の仕事先で卒業式が挙行された。この時期は、各方面から行事参加の声が掛かるのだが、普段出張などで忙殺されたり、筆者自身がセレモニーに苦手であったりして、参列してこなかった。

しかし、今回は入学段階から面倒を見てきた学生がめでたく卒業することや、筆者が偶々休日であったこともあり、ふと来賓招待を受けようかという気になったのである。

当日は、ほんの一週間前の寒さとは打って変わり、ハレの日に相応しい、温暖な天気に恵まれ、仕事に疲れた筆者の気分も幾分和らいだのである。

ところで、式自体は一般的な型通りのもので特段珍しくなかったのだが、卒業生の振る舞いを見て、疑問を感じたことがふたつあった。そのひとつは、国歌を斉唱できない(あるいは知っていても発声しない)学生が多かったことだ。当世の学生は、かつてとは違って、政治的思想に敏感であるとは言えないので、恐らく歌詞を知らないというのが実際のところなのだろうが、表情に緊張感すら漂わない無言の起立姿はいささか奇妙に感じられた。

もうひとつは、卒業証書を授与される際の所作である。氏名を読み上げられても大きな声で返事せず、壇上から演台まで数メートルをだらしなく歩いているのである。少なくとも、演台前で方向を変えるときには、踵をコンパスのように使ってリズミカルに直角に曲がるはずなのに、飲酒運転の車のようにフラフラと曲がるのである。見ていて、非常に格好が悪かった。

証書を授与してもらった後も、一直線に歩かずに、同じようにフラフラと歩くのである。そして、踵を擦るように歩くので、決して快適でない足音が場内に響き渡り、証書を小脇にすら抱えないで、娯楽雑誌を持つような感じで手にしている。見ていて、証書の重みなど全く感じられなかった。

今回、約260名が卒業したが、所作が型通りに丁寧であったのは、たった一人の女学生だけだった。

そのようなことで若干の見苦しさに耐えなければならなかったが、それを非難しても仕方あるまい。親の躾の問題であって、筆者の責任ではないからだ。

約2時間弱の式も無事終了し、再び青空の下に出た。筆者の目的は、ただ式に参加することではなく、指導した学生に可能な限り門出の言葉をかけて送り出すことだった。幸いにも祝いの言葉をかけたり、写真撮影に収まったりと和やかな時間が過ぎていった。多くは一回生から指導してきたので、どうしても情が湧く。だから別れの時期になると、余計に寂しくなったり、名残惜しくなったりする。このような時に限って、出会いの皮肉さを痛感するのだ。

筆者は、自身を決して情の篤(あつ)い人間ではないと評価しているが、掛ける言葉は明るく努めても、やはり重くなってくる。気の利いた送別の言葉に難渋する。せいぜい「大学の経営事情に貢献してもらうために、君の卒業を取り消して、もう1年学費を払ってもらう。」と言うのが関の山。これでは気が利くどころか、下手なブラック・ユーモアに過ぎない。

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身体的ハンディを負ったI君。君と最初に会ったときは大学生活を無事終えることができるか正直なところ心配したぜ。でも、真面目に勉学に励み、成績優秀で表彰もされ、報われたよな。よかったよな、きちんと君を評価してくれる人がまだいるんだよ。この世の中は見捨てたものではないな。ただ、君は少々依存的なところがあって、それを克服して欲しいと思ったから、時に君にとっては辛い言葉をわざとかけたけど、それに気付いてくれただろうか。ハンディと一生付き合わなければならないけど、君自身が信念を持った生き方をすれば、ハンディごときは些細な問題になるはずだから、読売ジャイアンツの上原投手のように雑草魂を忘れるなよ。

少々回り道したY君。ここに来るまで少しばかり寄り道をしたけど、最初会った時から、君は折り目正しい人間性の持ち主だと思った。寄り道の理由を聞いて半信半疑だった。物事への理解度が相応に高く、大人の会話もできる。君には安心して話せることが多かった。入学して間もない頃、君が発した「背中を押して欲しい。」という言葉、一生忘れないぞ。あれを聞いたとき、僕の「責任」というスイッチが久々にオンになった。最初の目標とは違ったかもしれないけど、地元に戻ることができたのが何よりだと思う。親父さんには決して無理させるなよ、分かったな。それが子供としての義務なのだから。

純朴なI君。入学した時は、「はい」や「えっ?」と単語しか話さなかった君は随分成長したな。あの頃はI君と同じぐらい心配した。コイツは社会でやっていけるのかと(失礼)。しかし、地道によく勉強したものだよ。いわゆる偏差値の高い大学の学生ですらも難儀する試験を一発でクリアしたのだから。それは本当に褒め称えてあげたい。着実に積み上げる人格が溢れ出ていたように思う。また新たな世界に足を踏み入れることになるけど、決して不正に手を染めず、偏らず、職務に邁進するように。あと、初任給はお世話になった方々を接待するためのお金だから、その辺りはよく考えておくように。強く念を押しておこう。

底抜けに明るいA君とH君。君たちは凸凹コンビだよ。社交性があって、なかなか面白いけど、君たちは尻を叩かないと動かない。少々プレッシャーをかけても、危機感どころか、「マジっすか?」と無邪気に笑いながら返してくる。屈託のない笑顔に萎えてしまい、厳しい言葉を掛ける気力すら失われる。君たちはある意味で無敵艦隊かもしれないな。それからA君よ、31日まで学生証が使えるから学生割引で映画を観に行かなければ、とほざいていたが、その前に自分の目標のために予備校に来なければならないはず。サボってばかりでは、大きなツケが回ってくるぞ。

それと巨体のY君。君は明るくて、人柄も悪くはないけれど、いかんせん人の話に耳を謙虚に傾けないのはよろしくないな。教員は、声なき声まで耳にしなければならない仕事だから、心眼をしっかり鍛えて、最後まで興味があろうがなかろうが、空気を読まなければならない。まずは我を抑えて、相手の声を聞くようにしよう。それまでは修行だな。

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他にも印象的な学生が多く、多彩な面子ばかりで大変だったが、総じて彼らを相手にして楽しかったのは言うまでもない。時に彼らに厳しい言葉を浴びせ、時に同じ目線で馬鹿話に付き合う。苦楽を共にした同志と認めてもいいかもしれない。しかし、そういう日々はもう終わり、二度とやってくることはない。時だけは人間の意思に反して非情なまでに進む。

見送る側になった今では、色々な意味で心残りしてしまう。後悔しても手遅れなのに、忸怩たる思いを抱えている部分もある。このようなタイミングで自分自身の限界に苛まれるとは思ってもいなかった。

だが、晴天の下にあった彼らの澄んだ笑顔で救われたような気がする。しばらくの間、キャンパス内で彼らと談笑して、別れを告げた。辛くなるので、最後の言葉はあっさりと。それでよかった。

また、会おう!

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2008年3月11日 (火)

学び舎を巣立つ人への最終講義

学生生活に別れを告げ、社会人として活躍する君達のために以下の言葉を贈り、そしてそれを君達への最終講義としたい。

博文約礼(論語・雍也)

孔子はこう言われた。「君子たる者は広く学問を修め、教養を身につけ、それを集約して実行するのに、社会の秩序と生活様式に当てはめていけば、人としての正しい生き方に背くことはあるまい。」

学生生活は、その渦中にいる間、時に必死で、時に怠惰なものであるが、総じて早く過ぎるものである。これまでの学生生活でどのようなことを学んだかは人によって異なるが、学んだなりに人間的成長を果たせたはずである。しかし、学びは社会人になっても続くことを忘れてはならない。

人は、私利私欲のために、あるいは富を独占するために生きるのではなく、一人でも多くの人間が利することができるよう、各々が役割に応じた貢献をなすべきである。そのために先哲も含めて学んできたのであり、そしてそれが人としての天命であると思われる。

その天命を全(まっと)うするためにも、常に自己研鑽に励み、そして社会に還元することを第一義としなければならない。時に、「身を殺して以て仁を成す」(論語・衛霊公)と表現されるように、自己犠牲を払ってでも最高の徳を達成する、その気概を忘れずに卒業して欲しいと思う。

惜別の想いで、君達の背中を見送りたい。

論語訳参照:金岡照光編『中国故事成語辞典』(三省堂)

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2008年3月 9日 (日)

車窓

夕刻の越前路を特急雷鳥が駆け抜ける。

もう退役寸前の車両なのに、老体に鞭を打ち、終着駅までひたすら疾駆する。恐らく彼は地球を何十周もしてきただろう。

窓の外には長閑な風景がただ広がる。そして、田園風景が前から後ろへと、たちどころに流れてく。無機質な建物が少ないその地に立てば、土や森林の優しい香りがきっと我が身を包みこんでくれるはずだ。

窓には無愛想な顔が半分映っている。我が顔だ。疲れ、やるせなさ、苛立ち。口には出さないが、全てが顔に出ている。

オマエハ、何ヲ求メテイルノカ?何ガ不満ナノカ?

窓に映された顔に問いかける。しかし、表情を何一つ変えずに、実在のこちらをただ見つめている。

空には星が輝き始めた。雷鳥が夜の帳に包まれようとしている。その時、タイフォンがピーっと鳴り響いた。それは、自らの癒しなのか、それとも夕陽への惜別なのか。

視線は深くなる闇の先に向けられていた。

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2008年2月18日 (月)

自分の財布も政府の財布もマイナス・アカウント

毎年、この時期になると、本来の業務以外に厄介な作業がある。それは前年の事業収支を確定し、納税するための確定申告書を作成することだ。

筆者の場合、専ら会計ソフトで集計するので、帳簿知識がなくてもいいのだが、経費計算の仕分けの部分で、事業関係経費とすべきかどうかについて悩む時がある。その手掛かりは、領収書である

書籍に関しては、領収書を貰うものは仕事用としているので勿論記帳するのだが、飲食店の領収書になると、ビジネス・トーク以外にプライベート・トークにも及ぶことが多いので、その場合どちらが主だったものなのか思い出さなくてはならない。結構記憶力が要求されるものであり、一連の作業を含めて、この時ほど、秘書が欲しいと切に思うのだ。

いずれにしても、本日申告書の清書を完了し、後日の提出に備えることになったので、ひとまず安心したのである。ちなみに、還付金は例年遊興費に充てているのだが、今年は自分への知的付加価値を高めようと思っており、そこへの投資を予定している。

こうして空欄に数字が記入された確定申告書を手に取り、そこに羅列された数字をあらためて眺めなおせば、一年間の評価が金額として示され、次年度はこれを上回ろうという気持ちが湧きでるのだ。

他方で、租税の使途も納税者の観点から気になることだ。保存している平成12年分の確定申告書には、国の歳出の使途が説明されている。これによると、1,000円当たりの使途に関して、国債償却や利払いで258円、福祉に197円、地方公共団体への財政調整(地方交付税など)に176円、道路住宅整備に111円、教育科学技術に77円、防衛に58円、その他123円と記載されている(平成13年度からは申告用紙の様式が変更され、そのような記載が残念ながら削除されてしまった。)

各項目について単年ベースで比較できるようなことができたら興味深いが、現在の財政赤字の状況が国民一人当たり600万円を越すようでは、公表しづらいのではないかと推察している。

納税は国民の当然の義務であるのだが、昨今の道路特定財源や年金財源の不明朗な支出に係り、政官の財布感覚が疑われる事件ばかりが頻発している。これらに限らず、歳出削減が叫ばれるたびに、実は歳出の大半が無駄な出費であるのではないかと疑わざるを得ない。

租税の徴収が公正かつ厳正に行われることは勿論のことだが、租税の配分、ひいては予算の執行も無駄がないようになされなければならない。年間所得が3,000万円を越す国会議員が自らの胸元を肥やすために汲々としていては、かようなことは期待できまい。

だが、政治は政治家や官僚の独占物ではない。民主主義である以上、国民が自ら選択をしなければならない。いや、選択することが国民の義務ではないだろうか。

勿論その帰結として、選択の失敗から生ずる負担は最終的に国民が何らかの形で負うことが前提とされている。現在の政治の失敗は、大まかに表現すれば、国民による選択の失敗であるといえる。中には、政治家や官僚に直接的な責任があると批判する声もあるが、元々の問題として彼らの動きを十分監視しなかったのは何をいわんや国民そのものであり、やはり国民の側に責任が存在するのではないだろうか。民主主義というのは、そのような類いのものだ。

民主主義は、建前論であるかもしれないが、国民の高度な判断によって成立し、そして国の行方が決定される。従って、民主主義の成否は国民の覚悟の上に成立するとしても過言ではない。もしその覚悟ができないというのであれば、政治に関心を払い、どのようなものであれ関与し、たとえ少数者であっても改革を求め続けるか、あるいは主権を絶対主義者に全面委譲(信託)し、被治者に甘んじるかのどちらかだ。

これらの選択が迫られた時、多くの者が前者を選ぶことになるだろうが、選択を迫られる以前に能動的に選択することを求めたいのである。政治的無関心を公言し、選挙で投票行動を起こさず、ただ政治に嗟嘆するようでは余りに無責任である。作家の高村薫氏も、自著の時事短編集で、国民による主体的な政治への関与を訴えている。

ともあれ、日本の社会層全体の所得水準が低下する中で、国家に徴収された租税が、社会的弱者の自立ないしは援助に少しでも多く配分されることを願うのである。それがひいては政治的質の向上にも繋がると筆者は考えているからだ。

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2008年2月16日 (土)

書きかけのエントリーはあるけれど

2月になってから変則的な勤務となり、仕事の内容も1月までのパターンと比べて大きく変わる。様々な仕事を請け負うことがその理由となるのだが、それでも合間を縫ってエントリーを書き進めている。ただ、仕事の準備を優先することから、書きかけで放置しているエントリーも何本かある。思うように先に進まないことで少々苛立つのだが、それは仕方がない。

最近の筆者は、読書を再開するようになり、佐藤優氏の国家論に関する著作や、高村薫氏の時事短編集を移動時間や寝る前のナイトキャップ代わりに開いている。自分自身あるいは世間一般に通用している説とは異なる他人の意見に接すると、新鮮で興味深い。知的に刺激を受ける感覚が快感というか、心地よい。

本来は国際通商法の領域で実績を積み上げていくことが求められているのだが、同期との比較で大幅に遅れを取っている。

それも人生、巡り合いなのかと、最近強く思うようになっている。

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2008年2月 3日 (日)

不承不承

1月を過ぎると、学生は何かと多忙だ。受験生は大学入試に奔走し、大学生は期末試験対策で大童となる。

当然、教壇に立つ筆者も試験監督や採点に追われている。特に、年度末になると、卒業予定者の成績判定が絡むため、予定は何かにつけてタイトになり、書類提出は厳守が言い渡される。

色々な仕事を抱えている筆者は、時間の合間に採点業務をてきぱきとこなしていく。しかしそれは非常に退屈な作業であるゆえに、精神的には苦痛を強いられる。ましてや、答案の内容が稚拙であればあるほど、赤ペンの走りが怒りで勢いを増す。

とある高等教育機関でのこと。昨年は採点が厳しかった、というよりは学生の答案の質が高校生以下であったために、講義担当者の責任において大半を再試験対象者とした。弁解するようだが、実は事前に演習問題を配布して、その範囲から出題することを明らかにしていた。しかも、演習問題は、学生の学習時間を考慮して、試験実施の2~3週間前に配布したのである。解答まで添付したので、学生は暗記しさえすればよい。

筆者はこれで8割程度の者が合格すればよいと見込んでいたのであった。しかし、その期待は見事に裏切られたのである。及第点(平常点の20点を含む)に及ばなかった者が全体の7割程度、そこから若干情(なさけ)をかけて、50~59点の者を60点にするという「荒業」までした。そうであっても、及第点に達したのは全体の6割弱という有様だった。これは基本的な学習能力の欠如としか表現しようがない。

かような事情が今年にも影響しているようで、採点の厳しさに学生からクレームが上がったようだった。「大人の事情」として、今回は手心を加えて欲しいと、事務方からやんわりとした圧力がかかったのである。

それを拒否することも可能であったが、ここは先方の「大人の事情」を汲んで、40点分を平常点としてカウントすることにした。そうすると、合格者は一気に増え、平均点も上昇したが、素点が悪くても平常点で救済される学生まで現れ、試験を実施した意味が半減したのである(素点で30点強を稼げば単位認定の可能性がある。)。

「教育に責任を持つ」というのをモットーとすることは至極真っ当なことなのであり、大学教育に値する教育を実践する、あるいは学生に付加価値をつけるとなると、当然成績評価で厳しくなる部分は避けられない。こちらが求めるレベルに学生が到達していないにも関わらず甘く評価することは、学校においてあらたに無能人間を再生産することとなり、教育機関の自殺行為に等しい。

筆者の信念として、それだけは譲れなかったが、結果的に筆者はそれに屈した、いや加担したことになる。割り切れぬ思いで採点をしながら、「大人の事情」に対抗すべきだったのかと呻吟する週末であった。

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2008年1月23日 (水)

ブログのアクセス-霊的なるものへの懐疑-

以前、ある女性占師のペテンさを暴露した著作を紹介した。筆者だけが閲覧できるアクセス記録をたどると、ここ数日このエントリーに対するアクセス数が増えている。それは彼女のメイン番組が自身の都合で打ち切りになるということと関係しているようだ。

あの著作を巡っては、占師側から出版社だけを相手取って裁判が提起されている。奇妙なことに、本来被告とされなければならない、この著作のライターは訴えから除外されている。なぜなら、暴露された事実が取材メモとなって残されており、もし一連の経緯が法廷に開示されれば、彼女自身の立場に傷がつけられる、つまり返り血を浴びることが必然だからだ。問題となった著作を読めば分かるが、彼女の裏社会での女傑ぶりが容易に窺われる。

最近、占いは言うまでもなく、霊やスピリチュアルなるものまでも持てはやされ、テレビ番組では高視聴率だという。以前は霊が存在するか否かとか、心霊スポットがどこであるかといった具合の番組が主流だったのだが、同じ「霊」というテーマでも、いつの間にか個人の生き方を指南する、やや説教臭い内容に変化している

ちなみに、先日政界でも話題になったUFO論議では、テレビに出てくるUFOコメンテーターの胡散臭さから、話の内容以前に主張があやふやさ過ぎて、まだ笑って見ていられる。筆者は、彼らの言説を一切信じないのだが、他方で広大な太陽系に我々のような生物が存在しているように、銀河系には人間以外の知的生命体が存在していても不思議ではないと思っている。

話を戻して、スピリチュアルにはほとんど興味を感じないのだが、何となくチャンネルを合わせて視聴してみると、主唱者は、個人の人生が霊的なものによって左右されていると真顔で話している。筆者はそれを目の当たりにして、それが全てであるかのような話し振りに強い違和感を感じるのである。

人間が霊に支配されているということは、極論すれば人間の構成体である世界も同様であると考えられる。さらに普遍化すると、世界は人間の力ではなく、外的な、しかも非科学的な要因によって動かされていると一応結論できるが、それは十分な根拠がなく、しかも論理が飛躍しすぎて到底議論になりえない。

筆者は、霊的な存在を実際認知していないので信じてはいないが、その存在を一切認めないわけではない。人間世界の中には非科学的なるもの、合理的に説明できないものが存在すると漠然ながら感じている。実際、古典には妖怪伝説が遺されていることから、人々は何か得体の知れない存在に魅了されてきたし、何某かの畏怖の念を抱いてきた。

ただ、霊であれ、スピリチュアルであれ、問題となるのが3点あるだろう。まず、科学的かつ論理的に説明できない存在を神聖化あるいは美化し、殊更その存在の重要性を強調していることだ。それが信奉者個人の価値観の水準に止まっているのであれば差し支えないのだが、他人の人生観にまで介入し、科学的に説明できない存在を通じて論評することまでは勇み足どころか、なにゆえにそれが可能なのかと違和感を感じてしまう。

実際、あるテレビの特番で、東北地方でボランティアをする女性に対して、あるスピリチュアル・カウンセラーと称する人物が批判的な態度を取り、抗議を受けていたことが明らかとなった。しかも、架空の講演会に呼び出して、それをしたという。放送局から構成されるBPOの放送倫理検証委員会が放送倫理に反するとの結果を公表した。その始終を視聴していないので、コメントできないのだが、大体は想像がつく。

次に、「霊」と表現すれば、得体の知れない恐怖感を感じる存在として遠ざけられがちだが、スピリチュアルと表現すれば、英語の語感もあって、神聖なもの、美しきもの、というイメージになぜか変質し、幻惑されてしまう。そこに、スピリチュアル・カウンセラーとくれば、本質は単なる霊媒師なのに、従来の霊媒師とは違う話し振りや外見で一般受けしてしまう。体(てい)のいい霊媒師というところであるにも関わらず、である。

占師にしても本質はさして変わらない。英語では、 fortune teller と書くが(なぜかこれは日本語の世界に定着していない。)、競馬場や競艇場で当たり馬券・舟券を予想する予想屋と本質は同じ、単なる人生の予想屋なのである。不確実さを確実なるものとして、「恐らく、そうなる(だろう)。」のレベルなのだ。しかし、冒頭で書いた彼女は、恫喝めいた言葉を吐き散らかし、「あんたは必ず地獄に堕ちる。」と言う。地獄に堕ちたかどうかは、当の占師本人ですら、当然検証できない(逆説的に言えば、検証できないからこそ、占いといえるのだが。)。だから、半ば無責任な言辞を弄することができるのだ。これはスピリチュアルの分野にも当てはまる。

そして最後に、彼らが霊的な存在あるいは確実でないことを商売道具としていることだ。冒頭の占師の場合、暴露本によると、かなり高額請求らしい。また、著作は発売されるやベストセラー・ランキングに登場するようであるし、携帯サイトも結構な人気らしい。俗っぽく表現すれば、彼らにとっては不可視な(invisible)ものをネタにしたビジネスなのだ。

彼らが発する言葉はいかにも説得力あるように思えるが、実は確実な根拠などない。行き着くところは霊という存在でそれを正当化している。しかし、元々霊という存在が非科学的なものだけに、当然その説明も非科学的(非合理)なものになり、万人を承服させることはできない。ただ、判断能力を持ち合わせていない人間だけが騙される仕組みなのだ。悪しく表現すれば、公然詐欺に近い。

それに比べると、スポーツ新聞や雑誌の星占いは可愛げがある。「当たるも八卦、当たらぬも八卦」だからだ。外れても、もともと高額な対価を支払っているわけではないので(せいぜい新聞・雑誌代金)、真に受けて立腹などしない。それに対して、彼らのビジネスは悪質というには度が過ぎるかもしれないが、検証不能なものに、それなりの対価を求めていることだ。

また、それに拍車をかけるように、テレビ局も安易なブームを創出、そして便乗し、過剰演出に精力を傾注している。先の東北の女性の例は、その典型例だ。納豆騒動は納豆にダイエット効果があるかどうかというだけで、別に納豆自体は健康食品とされているので、実害は大きくない(もちろん過剰演出は非難されなければならない。)。しかし、この場合は一般人の人生を大きく狂わせかねない危険性を孕んでおり、最早納豆騒動どころではない。

公共的な役割を担う放送が論評を超えて、十分な根拠を示さないまま、得体の知れない存在を娯楽性だけで肯定するのは、視聴者をミスリードすることになるので、控えなければならないのは当然の事理である。

ここまで、提供する側を批判してきたが、他方で一般人の稚拙な判断能力も同様に批難されなければならない。我々は全ての人間でないにせよ、単なる言葉の響きに騙され、真贋を見抜く力をとっくに失っている。同時に、自己判断能力も欠如している。それは各自が自らの生き方に自信を失いつつあるから、縁(よすが)を求めて「溺れる者は藁をも掴む」というのもあるのだろう。それは分からなくはない。

しかし、メディアが何度も幻惑してきたにも関わらず、我々はほとんど学習していない。あの類いの番組が高視聴率であるのは、そのような能力が備わっていないことを示唆しているようで気になる。

占いやスピリチュアルを信じる、信じないは各自の自由なのだが、判断能力を喪失することは自らの生き方だけでなく、我が国の政治的意思決定にも大きく影響する。つまり、欠如した判断しかできないようでは、国の命運は傾き、そのツケはブーメランのように我々自身に転嫁される。

我が国の政治がうまく機能しないというのは政治家のせいだと、まことしやかに主張される。確かに一理あるだろう。しかし、それ以前に政治家を選ぶ人間の判断が劣っているようでは、かくのごとき状況になるのは当然だと筆者は得心するのである。民主主義の危機が訪れるのは、そう遠くないのかもしれない。

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2008年1月17日 (木)

13年の時間

震災から13年が経つ。あの日のことは、その瞬間からほとんど記憶している。様々な報道があったにも関わらず、記憶が錯綜しないで、自分自身の記憶が鮮明にある。直接経験と伝聞が頭の中できちんと整理されている。

過去のエントリーでどのようなことを書いたのか辿っていないので、重複するかもしれないが、知り合いの捜索と救助、ボランティア、買い出しなど日々が目まぐるしかった。

13年も経てば、残念ながら記憶は薄れていく。そして、人々が体感した痛みも和らいでいく。それを筆者は非難するつもりはない。ただ、そのような大災害が事実として起こったことを後世のために語っていかねばならないことだけは強調したい。

他人の気持ちを理解し、そして自分自身のみならず、他人の命を尊重していくことが唯一の救いになればいいと心から思う。

まだ癒されぬ人たちの哀しみに心を寄り添わせ、そして不幸にして亡くなられた方たちへ哀悼の意を表したい。

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2008年1月16日 (水)

誰のための満中陰なのか

祖母が他界してから四十九日が経った。初七日が終わって、四十九日までは特に何もないものだと思っていた。実はそれは素人的考えで、実際は「逮夜」という毎週末に親族が中心となって読経をすることもした。そのような法事があることは、ここで初めて知った。

先日来より他人からうつされた流感が悪化するばかりで、欠席も考えたのだが、四十九日こそひとつの区切りであると思い、少々無理をして参列した。遠縁ならともかく、生前それなりに大切にしてもらった祖母の追悼に行かないのは、自分自身に対して許せないと考えたからだ。父は「しんどくなったら、いつでも運転代わるぞ。」と言いつつ、免許証を忘れ、母も免許証を持っていると言いつつ、四十九日が終わった後の食事会では飲酒をしたので、結局筆者が往復運転しなければならない羽目になってしまった。

早朝自宅を出発し、喪主である叔父の自宅に到着したが、筆者は読経まで少々時間があることを口実に車で仮眠をしたのであった。実際、体力が落ちた状態で片道2時間弱運転しただけでも消耗していたのである。

それはさて置いても、田舎での行事は法事であれ、一種のイベントのような様相になる。つまり、参列者にどれだけ見栄を張れるのか、ということである。故人を偲ぶというのは、どこかに飛んでいってしまっているという感じだ。

というのも、筆者が仮眠している間、両親は参列者に手渡す手土産の整理を手伝うために叔父宅に上がったのだが、そこで叔父夫婦に結構な嫌味を言われたようだった。聞けば、手土産の品をミルしたコーヒー(インスタントコーヒーではない)にしたことが、叔父夫婦にとって安上がりに思えたらしく、喪主に恥をかかせる気かということだった。

これもここで知ったことなのだが、通夜、告別式、初七日に、親族が列席者に列席してくれた礼としての手土産を渡しているのである。四十九日も例外ではない。その内容は、製パン、箱ティッシュ、入浴剤、洗剤など一品当たり500円から1000円程度の日用品を数点大きな紙袋に詰めて渡すのだ。しかも、それは読経をした住職にも渡される。したがって、各品に贈り主の熨斗(のし)を貼付している関係もあって、誰がどのような品にしたのか分かるのである。当然、面子を重視する田舎にしてみれば、安上がりなものを贈れば田舎町の噂のネタになりかねないのである。筆者にしてみれば、物を目当てに参列する人などいないと思うのだが、どうもそれは通用しないらしい。

父の田舎は、保守的と表現すればいいのか、それとも体裁にこだわるといえばいいのか分からないが、ある意味で意地悪なところだ。絶えず誰かの噂話や悪口を耳にする。そして、気に入らない人物がいれば、平気で村八分にする。狭い土地柄なので、ひとたび疎外されると再び輪の中に溶け込む機会はほとんどない。都会基準では、およそ信じがたいことだ。

ここまで読んでくれた読者には、大体想像つくだろう。四十九日は故人のためにあるというよりは親族の体裁や見栄のためだけにあるということを、である。

加えて、田舎の慣わしということなのかもしれないが、読経の回数が矢鱈と多い。母方の祖母が他界した時は、神戸で一切を行なったこともあり、都会様式でシンプルだった。もちろん、負担は重くない。しかし、こちらは亡骸が帰宅したときに読経、通夜で読経、告別式のときにも家で読経し、さらに菩提寺で本格的な読経、逮夜で読経、四十九日も家で短く読経し、さらに菩提寺で読経、と南無阿弥陀仏を幾度となく唱えただろうか(これが本来のあるべき様式なのかもしれないが…)。暗記できそうだったが、さすがにそれはできなかった。

先にも書いたように、寺での読経は体調が悪かっただけに非常に辛かった。約一時間の読経がとてつもなく長く感じられ、なぜここまで手間をかけるのか、正直なところ腹立たしかった。また、正座をしていたから、途中足が痺れたり、痙攣したりして、それに耐えることもしなければならなかった(正座から胡坐に座りかえることは何度かした。)。挙句には、300人余りの回向を読み上げるものだから、内心ではいい加減にしてくれと、住職の後姿が憎らしく見えることすらあった。恐らく、他人から見れば、その視線は憎悪に満ちていたかもしれない。

話を戻して、「車を運転するのに注意しても注意しすぎることはない。」という英作構文ではないが、「読経をしてもしすぎることはない。」ということなのか。しかし、それで成仏することが確約あるいは保証されるのだろうか。もちろん、宗教を無碍に否定しないが、故人が生きていた時にこそ、その人を大事にすべきであって、亡くなった後に熱心に拝んで意味があるのだろうか。故人はそれで蘇らないし、成仏を見届けることすら実際にできないのである。成仏すると信ずる、あるいは信じたいという願望の投影、自己満足に終わっているのではないか。願望や自己満足ならば、故人が浮かばれない。それではあまりに酷な話だ。

菩提寺に少々不満なのは、そうした各々の読経に何の意味があるのか、あるいは拝むことに何を見いだすのかを教えられないままに、寺のペースで事が進められ、そしてそれに応じた布施だけが渡されているという事実を理解することができなかったことだ。しかもそれは心づけの範囲を超えているから余計にそう感じてしまう。「大姉」という戒名代だけでも七〇万だ。成仏するためには、それは「必要経費」なのだと言わんばかりのものには、いささか閉口してしまう。果たして勿体ぶることが宗教なのだろうか。

年末の紅白歌合戦に「千の風になって」という名曲が披露された。叙情的な歌詞が心を魅了させる。あるラジオ番組で「あの歌詞は聴きようによっては、墓石屋や寺の敵となるような内容だな。」とユーモアで語られていたが、宗教の所作を煩わしく感じた今回の経験から、別の意味で共感してしまう。散骨ブームもその反映なのかもしれない。

そういうこともあって、誰のための法事なのか、祖母は果たして心から喜んでくれるのか、読経を片耳にしながら思ったのである。

筆者にとっては拷問に感じられた読経も終わり、粉雪が舞う中で納骨も無事終了し、祖母は墓石の住人となった。最近まで達者であった姿が鮮明なので、帰らぬ人となったことがいまだに実感としてない。

帰宅してから、手土産を開封してみた。特に叔父夫婦が「ウチは4000円ぐらいのをしているさかい、兄さん(筆者の父)とこも、それぐらいしてもらわな困る。」と言ったからには、検分する必要があった。中身はドレッシング2本に、ゴマのパック、はったい粉の詰め合わせだった。戦時中じゃあるまいしと思いつつ、ネットで売価を調べたら、せいぜい2000円もしない代物だった。

その後の我が家は、皆立腹しながら夕餉を囲んだのは言うまでもなかった。誰のための四十九日なのか、寺には寺の、親戚には親戚の面子を見せつけられた後味の悪い法事であったのは忘れないだろう。

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2008年1月 8日 (火)

抱負は破るためにあるもの

誰でも一度は新年の抱負を語ったり、決意したりと、これから始まる一年の manifest を明らかしたことがあるだろう。

しかし、それを完遂した、あるいは完遂できなくとも、なぜ実現できなかったのか厳密な検証をした人は多くあるまい。筆者の周囲で、前者を耳にしたことは皆無に近いが、後者は掃いて棄てるほどある。

検証するということは、次への教訓を活かすモチベーション(動機)があるからこそのことであり、しないということは、当初の抱負は誠の気持ちではなかった、性質的に軽いものとみることができる。冷ややかな言い方をすれば、その程度のものなのだ。

結論を直截に言うと、新年の抱負とは、政党の政策綱領や首相の新年会見と同様に、 得てして破るためにあるようなものではないだろうかと思っている。

かくいう筆者は、無精の極みのような存在で、アイデアを生み出しても、アクションまでは起こさない性質(たち)だ。ゆえに、筆者に抱負を語らせることは、史的見解を十分に持ち合わせていない教科書検定官が恰も未確定の史実に介入するのと同程度に意味を持たない。実際、希望や願望を明らかにしても、かくあるべしと固く決意したことは記憶にない。否、あったとしても、物忘れがいい筆者は、「不都合なことは闇に葬るべし」をそのまま実践し、非常に都合よく忘却の彼方へと追いやっているだろう。ある意味で、ずるい選択なのだが…。

とはいえども、新年の抱負を明らかにすることは、跳び箱に喩えると、踏切り台のようなもので、ひとつの弾みをつける。そして、その弾みで目標をクリアできることもあれば、逆に挫折してしまうこともある。よくありがちなのは後者のパターンだと思う。例えば、毎年、春先だけNHKの語学講座のテキストは売れ行きが良好らしい。しかし、夏になると悪くなるという。口汚く表現すれば、「ケツを割った」人が多いということだ。

折角の抱負を完遂できないことには、様々な事情があるだろうし、それはそれで仕方のないことだと思う。諦めることもよりよい処世術のひとつだからだ。

ただ、抱負というものを「悪魔の囁き」によって主体的に破るほど快感なものはない。抱負や決意を自然に実践しなくなったというのとは意味合いが違う。あえて自分自身に対する公約を反故にするのだ。そして、その悦びもまた悪くない-格別かどうかは別にして-。さらに、後ろめたさすら全く感じなければ尚理想的だ。

こうして、大体の人は毎年抱負や決意をしては次々と破っていく。こういうことを幾度も反復し、「ああ、今年も抱負を実現できなかったな。」と年の瀬に振り返り、己の愚かしさを反省するのである。いや、反省して愚かしさを認識することだけでも十分意味のあることか…。

PS 筆者は、上にも書いたように抱負を明らかにしない。その代わり、願望はある。毎月旅に出ること、英語学校に通うこと、書くこと、読むことぐらいか。どれひとつとして実現されなかったとしても、年の瀬に愚かしさを嘆く必要はない。やはり、筆者はずるい人間のようだ。

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2008年1月 1日 (火)

本年もどうかよろしくお願いします。

過日のエントリーでも書きましたように、身内に不幸があり、公には新年の挨拶を控えなければなりませんが、社交儀礼としてご挨拶申し上げます。

ところで、正月を迎えるたびに思うのですが、年々正月の雰囲気が薄らいでいるように思われます。例えば、大型店舗は元旦から初売りセールをしていますし、テレビも出演者は羽織や着物を着ていても、番組内容は普段視聴するようなものと大して変化がないという具合です。そうすると、余計に正月気分も興醒めになってしまいます。あと、日章旗を玄関先に掲げる家庭も見かけなくなりました。

筆者の子供の頃は、元旦あるいは三が日というのは、どこも休業していて、その分家族と過ごす時間が必然的に多くなっていたような気がします。社会全体が停止したといえば大袈裟ではありますが、そのような感覚は三が日だけにしか味わえない特殊な空間でした。また、子供時分には親戚に挨拶回りをして、「集金」活動に勤しむことも正月にしかできない楽しみでもありました。

要するに、いみじくも、一年の中でも特異なハレの日がそうでなくなってきているという、筆者の友人の指摘に同意せざるを得ません。正月という季節感がかなり色褪せたということでしょうか。

近い将来になると、書初め、年賀状、雑煮、おせち、お年玉、初詣などといった慣習が廃れる、あるいはそこまで至らなくとも正月という慣習を曲がりなりにも維持する側と、面倒だからと簡略化あるいは省略する側に分化するかもしれません。

筆者は、日本の風習が廃れていくことを嘆く訳ではありませんが、一年のけじめとなる初日が特異な日ではなく、日常化していくことに一種のもったいなさを感じるのであります。

White_tigerPS 東京から帰省した甥を連れて、元旦早々姫路セントラルパークに行って来ました。写真は生後4ヶ月のホワイト・タイガーです。調教師が傍についていますが、背中を触らせてもらえます。まだあどけない顔をしているのに、度胸だけは立派な虎です。ガゥと人間に吠えたり、噛み付いたりしようとしますが、なかなか可愛らしいです。

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2007年12月31日 (月)

どうかよいお年を。

本年も当ブログにアクセスくださいまして、ありがとうございました。

今年も様々な事件に溢れ、残念ながら決して明るい社会とはいえませんでした。このブログでも、本来の趣旨からそのようなことを織り交ぜて綴る予定でしたが、なかなかそれに沿ったものとはならず、読者の皆様の期待を大きく裏切ることになっているのをお詫び申し上げなければなりません。

新年こそは、と思いを新たにすることが多けれど、ならぬものはならぬ、というのが人生の常でありましょうか。

新年も皆様にとってよき一年でありますように、お祈り申し上げます。

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2007年12月29日 (土)

去り行く人への弔辞

この世から去り行くことは容易いが、生きることもこれまた艱難の道である。

昨月、筆者の祖母が他界してあらためて感じたことである。享年91歳。あと一週間も経てば、もうひとつ年を重ねることができたのだが、それを目前にして、黄泉の世界へと旅立った。

これで筆者の祖父母は誰もいなくなってしまった。悲しいというよりも、身近な存在が急にいなくなり、寂しいという気持ちが先立っている。

亡祖母と最後に会話したのは、わずか4ヶ月前のお盆だった。その時は、幾分足元が覚束なかったものの、高齢者にありがちな会話の擦れ違いは全くなかった。そのせいか、その時の記憶がまだ鮮明に残っていて、達者であったそのことが妙に懐かしく感じられる。

もっとも、今年の早春に大腸がんが発見されてから、体調を崩し気味であったことは、彼女を介護していた叔父から何度か聞いていた。しかし、夏に会った時には、聞いていた以上のことを感じさせるほどではなかったので、筆者の一家は安心していた。実際、それまで大病を患ったことがない人だったからだ。

ただ、秋口から風邪をこじらせたのが良くなかったらしく、それが急速に寿命を縮める原因となったようだ。

亡祖母とは、一年に二回も顔を合わせるかどうかという具合であったが、生前はよく可愛がってくれた。良くも悪くも、同居することがなかったので、様々な現実に直面しなかった分だけ、いい記憶しかない。

今回のエントリーは、亡祖母に纏わるごく私的なエントリーを綴ることで、亡祖母への追悼文としたい。

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11月最後の日曜日。叔父から電話があり、祖母が突然人事不省に陥ったと連絡を受けた。奇しくも筆者の誕生日だった。

滋賀県の片田舎まで慌てて駆けつけた時には、祖母は人工呼吸器から送られる空気で辛うじて生きながらえていた。もちろん呼びかけには応じなかった。個室には、人工呼吸器の機械音が静かに響き、空気が一定の間隔で自動的に送られるたび、祖母の胸が膨らんでは、しぼんでいく、ただそれだけが繰り返されるばかりだった。強制的に呼吸させられているとしか表現できない有様だ。

聞けば、朝方に心停止があり、心臓マッサージで蘇生したとのことであった。大腸がんが発見されるまでは大病を患ったことがない人なので、生命力は強いほうだと今でも思う。だから、眼前で静かに横たわっている祖母は、ただ眠っているだけにしか目に映らず、命の最期を遂げようとしているその姿を肯定しようにもできなかった。現実的には、まさに命の灯火が消えかかっているにも関わらず…。

途中、様子を見に来た看護士に見通しを聞いても、明確な返事はなかった。ただ、排尿がないので、状態は良くないという。これは婉曲的ながら一両日中のことであると受け取れた。

このような状況に接すると、人間の生命の長さは、誕生した瞬間に運命付けられていると、漠然ながら考えてしまう。また、人生の終幕を迎えている人間に奇跡などありえないとも思ってしまう

しかし、父は奇跡、いや少なくとも意識の回復を期待してか、横たわる実母に声を掛けて反応を確かめようとする。筆者は、父に遠慮して「おばあさん、大丈夫か?」と無意味な問いかけをするも、心の中では最後の挨拶を済ませたのであった。奇跡はないと思ったからこそ、そうしたのである。

いずれにしても、為せることは、途方のないままに見守る。それだけのことだった。我が一家の気持ちは諦めと、もどかしさでやるせなかった。それを「もう歳だから。」と口にすることで誤魔化したのである。

危篤状態であるがゆえに、父はそのまま滞在することを考えたようだが、身の回り一切を用意しなかったので、いずれ来たるべき時に備え、いったん自宅に引き上げることにした。

しかし、猶予は与えられなかった。延命処置は丸一日ともたず、日付を跨ぐや否や、祖母は幽明界(さかい)を異にしてしまった。結局、父は最後の肉親でさえも、死に水を取れなかった。今から思えば、父だけでも残しておけばよかったのかもしれない。

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生前、祖母と父は非常に仲が良かった。例えば、毎月1回は少なからず電話をし、事細かに色々なことを話していた。筆者の母は告げ口されているようでそれを非常に嫌っていた。もっとも、世間ではマザコンと片付けられるかもしれないが、筆者の目にはそれ以上に精神的紐帯が強いと映った。なぜなら、非常に保守的な片田舎で父は長男として生まれ、また祖母はいわゆる戦争未亡人で、戦後は母子家庭を守ってきたからだ。当時、母子家庭における長男の役目とは、母と共に働き、生計を立てることに他ならなかったのである。

祖母は生前筆者に語ったことがある。非常に貧しくて、一家心中を考えたこともあると。しかし、厳しい現実から逃げずに、長年製陶会社で轆轤(ろくろ)を回し続けた。あたかも陶器職人であった亡夫の仕事を引き継ぐかのように…。筆者も幼い頃、その姿を見たことがある。当時60歳を超えていた祖母は、陶器粘土の香りが充満する作業場で何を考え、働いたのだろうか、今になって聞けばよかったと思う。きっと、ただ働くことだけが生甲斐だったのかもしれない。

父も飢えに悩まされながら生活したようだ。他人の畑から野菜を盗んではそのまま食べた話を本人から聞いたことがある。もちろん、学ぶことすらままならず、丁稚奉公のようなことをしたようだ。それがどのくらい生計に貢献したのかは分からない(もっとも、その後父はなぜか田舎に留まることを選択せず、都会に出て行ってしまった)。

しかし、祖母は幼き長男である父の稼ぎを少しは期待しただろうし、父もその期待に応えねばらないと思ったはずだ。だから、世間一般の母子関係ではなく、極貧の労苦を分かち合った関係なのだ。これは恐らく戦中派世代なら容易に理解できることなのではないだろうか。

ちなみに、筆者の祖父(祖母の夫)は終戦の年に動員され、朝鮮半島に出兵したようだ。その後、シベリアで捕虜生活を送り、復員途上でやはり出兵先であった朝鮮半島で餓死したと聞いている。それゆえに、祖父の墓には遺髪だけしか納められていない。当時小学校だった筆者の父曰く、彼の父の記憶はあまり残っていないという。半年動員が遅ければ、祖母、父共にそれほど塗炭の生活を甘受せずに済んだに違いない。

母方の祖母を亡くした時にも思ったのだが、戦争を経験した女性は逞しいし、処世に長けている。それは戦争を経験したことによって鍛えられたタフネスさゆえのことだろう。同時に、家族に対する想いも強かったはずだ。そう遠くない昔話を聞いていると、かつての家族関係は、良きも悪きも深かったようだ。現代家族のように、浅く、遠慮がちなものではない。だからこそ、親が子に、子が親に対して抱く想いは、筆者のような世代と比較して格段の差があるし、マザコンと一言では片付けられない側面もあるのだ。

ところで、訃報を聞いて駆けつけた時には、祖母は長年住み慣れた自宅に帰っていた。真新しい布団に横たわる祖母の表情は前日と比較して穏やかなものだった。本当は退屈で精神的に苦痛だったはずだ。文句を言いたくても言えずに耐えてきただろうし、我侭も十分聞き入れられなかった悔しさもあるだろう。親族の誰がそれを察知していたのだろうか。否、親族はそれを敢えて知らなかったことにして、全てが終わってよかったとする気持ちを、穏やかな表情であることに託したのかもしれない。祖母の事情など忖度せずに…。

そうして、亡くなった当日は、身内を中心とした弔問客を迎える一方で、翌日以降の通夜と告別式の段取りをどのようにするかを決めることで暮れていったのである。

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父方の田舎では、旧来の慣習が幾許か残存しており、葬祭もその慣習に則(のっと)る。従って、祖母の式一切の運営は隣組や親族で賄(まかな)う。ここでは、特別の事情がない限り、一切を葬儀屋に依頼することはしない。

今回、葬祭業者に依頼したのは棺の調達と納棺作業だけである。亡骸を納棺した時、担当者は幾重にも綿の衣を重ねた。祖母は綿雲に包まれているようだった。叔父が枕元に「これ、彼氏の写真やで。あっちで一緒になれたらええな。」と言い、60年以上も前に先立った亡夫の写真を一緒に納めたのである。

亡くなった翌日からは、筆者も菩提寺にて執り行なわれる通夜と告別式の設営に奔走したのである。その間は、これが祖母のためなのだという意識が遠のいていた。寧ろ、皮肉なことだが、祖母を亡くした寂しさを紛らわせるのには好都合だったのだ。

通夜では、訃報を聞いた関係者が続々と参列した。菩提寺で知り合った仲間、かつての職場関係、遠縁など、祖母の縁故がいかに広かったかをあらためて知ったのである。また、菩提寺は、片田舎の単なる老婆であった祖母には似つかわしくないぐらいの読経をした。生前は菩提寺に多額の寄進をし、寺の留守番まで請け負った祖母のことだから、ある意味で当然と言えばそれまでかもしれないが、住職が知恩院の要職を務めているせいか、仰々しいのが印象的だった。

翌日の告別式もまた、多数の列席者で約300席はすぐに埋められた。前夜と同じように、僧侶が読経を開始する。これまで何度、南無阿弥陀仏を唱えたことだろうか。祖母のためにと一緒に読経をしなければと思うのだが、意味が理解できないだけに身が入らない。信仰心が厚くない筆者にとって、大層な読経よりも祖母を囲んで昔話をするのが一番の供養だと思うのだが、これはあくまでも通過儀礼と割り切る。

そして、最後に棺を囲んで永劫の別れの挨拶を済ませた。いや現世での挨拶だ。厚い蓋を覆えば、触れることはできなくなる。周囲を見渡せば、誰もが涙を流している。通夜が終わった後に東京から駆けつけた兄も目を真っ赤にしている。兄は筆者以上に祖母と顔を合わせる機会がなかったのだが、やはり気持ちが動揺したのだろう。お盆の時が最後になるとは思わなかったが、兄も連れて行ってよかった。

父は今にも崩れ落ちそうだった。このような姿を見たのは初めてだ。父にとって、実家に戻るのは、唯一の肉親である母がそこにいたからであり、それが全てだったと思う。

生前から姑として嫌味を言われ続けられ、その都度立腹していた母も目頭を拭っている。

しかし、筆者は瞳が潤い、涙が頬を伝うことすらなかった。我慢していたのではない。意識的な感情の抑制すらなく、祖母の胸の辺りで組まれた手に、ただそっと筆者の手を添え、心の中で「ばあさん、またな。」と呟くだけだった。なぜ泣かなかったのか(泣けなかったのか)、自分自身の本心の所在を探ってみたが、全く分からなかった。気持ちが通っていなかったということはない。また、感情に全く振幅がなかったというものでもない。心の中ではさざ波が立っている。だが、なぜ平静を装うことができたのか、やはり今でも分析できない。

棺に蓋をし、覆いを被せることで、名残が尽きない別れに区切りをつける。出棺のため、棺を霊柩車に移し、田舎道を小一時間ほど車で走って最近建設されたという斎場に向かう。ほとんどがチャーターしたバスに乗り込み、筆者はマイカーで後を追った。

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いよいよ今生の別れがやってきた。親族はエレベーターのように扉が開いた焼却装置の前に集まり、装置に棺が納められるのを見送る。叔父が装置のスイッチを押すと、扉が静かに閉じ、中からヴォーンと機械音が響いた。もう亡骸ですら対面できなくなる。扉が閉じるのを目の当たりにし、これこそがこの世とあの世を結界する鉄のカーテンだと思った。そうして祖母は高温の中に消えていき、本当に帰らぬ人になったのである。

荼毘が終わるまで、筆者の一家と従兄とその息子だけが残り、あとの参列者はそのまま戻っていった。約1時間半待って、斎場職員に呼び出され、収骨式を行なった。職員の案内と進行に従い、寺に納める骨箱と墓に納める骨箱に分骨した。どちらも片手で持てる大きさのものだ。それらに足先から頭まで順に骨を積み重ねるように納めていく。

荼毘に付した金属製の台座は、まだ熱気をもっていて、長箸で抓(つま)むように拾い上げる作業をゆっくりと行なった。極楽浄土へと導く作業が粛々と進んでいく。そして、今度は遺骨となって帰宅を果たすのである。

台座に残された骨だけになると、脱力感といえばいいのか、虚無感というのか、台座の上で散々になった骨を目の当たりにして、出棺時のような感情とはまた違う感情が湧き出てくる。諦念なのかもしれない。

本来は、喪主である叔父に骨箱を預けなければならないのだが、用意された骨箱に納めたところで、父が、申し訳なさそうな口調で、さらに分骨を斎場職員に頼んだのであった。すると、職員はそういうことにも慣れているのか、これに壊さないように包めばよいと快く紙を差し出したのである。

父と叔父は兄弟だが、微妙な関係で、内緒で分骨することを知られたくない様子だった。父が自分用に分骨してもらったのは、祖母は生前父と同じ墓に入れて欲しいと頼んでいたようだった。母は、「お父さんが死んだら、ひとつの骨壷に入れてあげる。」とその場で言った。父にとってもそれを望むところだろう。

そうして、内緒で分骨した遺骨は無事筆者の自宅にやってきたのである。筆者としては、生前遊びに来てと何度か誘ったのだが、連れがいないためか、生返事だけで要領を得なかったのを記憶している。

四十九日が終われば、須磨寺に安置し、既に納骨を済ませている母方の祖母と一緒に過ごす。祖母はあの世でも決して寂しい思いをすることはないと思う。

斎場からの帰途、三日三晩仏様のお守りをしてきた父を見ると、疲労はピークに達し、身体はよろめき、会話が一致しないという有様で、恐らく母を亡くした精神的なショックが影響しているのだと思われた。帰宅をしても、終始座り込んで、うつむき、生気を感じることができなかった。

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祖母の生涯は、当時多くの人たちと同じように決して恵まれなかった。先にも書いたように、艱難の人生だった。しかし、家族のために働き、貧しいながらも立派な一生涯だったと思う。そして、その生き方に心から尊敬したい。筆者がこうしてこの世に存在しているのも、祖母が心中という選択をせずに、あえて艱難の道を選び、そして生き抜いたからだ。

生きることは難しい。だが、ここにそれを克服した祖母には、身贔屓かもしれないが、素直に敬意を表したい。

今頃は黄泉の国で、夫と再会を果たし、夫が知らない時代の話をたっぷりとしていることだろう。

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2007年10月25日 (木)

とりとめのない近況

1 本格的に仕事を再開して、1ヶ月も経たないのに身体が旅情を求めている。しかし、年内はまとまった休暇がないため、気持ちの落としどころを見いだせず、何となく気が晴れない。

そこで、ネットで何か旅情を満喫できないかと探していたところ、面白いアイテムが見つかった。「日車夢工房」というブランドで、山陽新幹線で使用されている実際の車内チャイムとアナウンスを目覚ましにした時計だ。

http://mpn.cjn.or.jp/mpn/contents/00001566/page/L129.html

九州には新幹線をよく利用し、聴き慣れた音声だけに、これで起きるのは悪くない。少しだけ気分が和らぐ。ただ懸念も他方である。そのまま夢心地に浸ってしまい、寝坊してしまうかもしれないリスクだ。だから、今まで使用してきた目覚まし時計と併用している。

2 普段外食の機会が多く、仕事先近くの行きつけの店に足繁く通っている。カレー、そば、洋食、ちゃんぽん、ビジネス・ランチなど、自分なりに気に入った店で昼食を楽しんでいる。

しかし、何度も足を運んでいるから変化もなく、たまには冒険をすべきかもしれないが、その部分に関して保守的なので、なかなか実行に至らない。そうなると、勢い旅先グルメが頭の中で入道雲のように思い出される。

最近、ふと阿蘇で味わった田楽を食べたいと思った。

http://www.dengakunosato.com/index.html

ここは、父がかつて勤務していた会社の得意先に案内された店だ。この店で囲炉裏を囲んで、田楽に舌鼓を打つ。店の庭には、ヤマメが養殖され、生きたまま串を刺し、そして炭火であおる。遠赤外線と放射熱で焼かれたヤマメは、表皮から香ばしい薫を放ち、そして鼻腔を刺激する。何と形容すればいいのか分からないが、至福のひと時であることだけは間違いない。

近いうちに、立ち寄りたい。そして、焼酎を楽しみながら、田楽を頬張る。来年には実現させたいプランだ。

3 水曜日の夜は、新大阪駅の直ぐ近くで仕事をしている。日没直前から出かけることは本当に久々のことだ。昼間は、列車の通過音や車の往来など激しい喧騒に悩まされるのだが、夜間になれば不思議と静かになる。本当に静かだ。

建物の外で一服すれば、新幹線のホームが眼前に広がり、東京行き、広島行きなどの案内放送やドア開閉時の空気圧の音さえ明瞭に聞こえる。今日も一日色々な人を移動させたのであろう。なぜかしら、新幹線のブレーキ音が感情を持った音に聞こえる。旅客の小さなドラマを紡ぎ出すホームは今日も暗闇に浮かぶ。

そして、頭上では、大阪国際空港に着陸するジェット機が車輪を下ろしながら続々と通過する。本当に手を伸ばせば届きそうな高さで、甲高いジェット音を辺りに響かせている。どこから飛んできたのだろうか。きっと、地上と同じような小さなドラマを幾重も重ねたに違いない。

新幹線の発着、ジェット機の通過を五感で感じながら、筆者は旅への思いを馳せるのだ。

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2007年10月18日 (木)

夜郎自大

亀田一家の報道に接して思うのは、夜郎自大こそ慎むべき処世であると痛感させられる。

マスコミに持ち上げられ、またこき下ろされた、まさに毀誉褒貶の被害者はある意味であの一家ではないかと思うのだが、そうであっても、彼らファミリーの蹉跌は世間を味方に付けなかったことだと筆者は考えている。世間様こそ、馬鹿にできない存在なのだ。

他方、内藤選手は世間をうまく味方に付けた。タイトル防衛成功後に、「国民の皆様の期待に応えることができた。」とコメントし、選挙に出馬したら大衆受けしそうな、しかもスポーツマンが通常発しない科白を口にして、鬱積したものを一掃したかのようだった。

タイトルマッチが終わって、騒動がまだ覚めやらないにもかかわらず、今でも彼は非常に謙虚で抑制的である。そして、彼の発するコメントは嫌味がなく、あっさりしている。これは恐らく彼の人柄に由来するものであり、亀田一家とは非常に対極的な位置にある。

もし、この attitude が彼の人柄でなく、計算によるものならば、彼は大した役者だと言える。うまく世間の感覚を自分に誘導し、味方に付けたのだから(もちろん、これは嫌味でも何でもなく、誠の気持ちでそう感じている。)。

無論、筆者はその attitude を批判するつもりはない。寧ろリングの上で孤独に闘った彼は、自らの支えとして世間を後ろ盾にしたのであり、それを為し得た能力を買うべきではないだろうか。

ボクシングは、何よりも先ず選手の実力勝負が第一だが、世間の後ろ盾というセコンドが第二のものとなるだろう。実は、亀田選手は、内藤選手との実力勝負以上に、世間との勝負に敗北したとも言える。今回のタイトルマッチは、アングルを変えると、謙虚さと夜郎自大の闘いで後者が負けたという、世間にありがちな様子をそのままリング上で再現した勧善懲悪劇のようなものなのかもしれない。

夜郎自大は身を亡ぼすということを肝に銘じなければならない好例が、国民に提示されたのを、中継から読み取れた視聴者はどれぐらいいたのか気になるところである。

PS 個人的には内藤選手の今後の活躍を祈りたいし、他方で亀田一家は心を全部入れ替えて、フェアなボクシングを目指して再起を果たすことができたら、それでいいのではないかと思っている。制裁は十分に受けたのだから。

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2007年10月17日 (水)

ひめゆり

先日の日曜日、神戸アートヴィレッジセンターで上映された、長編ドキュメンタリー映画「ひめゆり」を鑑賞してきた。

http://www.himeyuri.info/

もともとは本作を目当てに出かけたのではなく、「特 TOKKO 攻」という映画を鑑賞した際に、館内の案内ポスターで偶然知ったことがその縁だった。

ところで、「ひめゆり」とは、第二次世界大戦末期に従軍看護婦として活躍した沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の職員ならびに生徒達(240名)を指している。いまや、この言葉は彼女たちの代名詞になっているので、歴史教育などで大体の事情は知られている。

話を戻せば、「ひめゆり」は当時従軍した生存者(生存者の年齢は80歳を越えている。)のインタビューから構成された2時間余りの長編作品である。その長さは当時の模様が簡単に語りつくせないことを意味し、その内容は聞くに堪えがたい凄惨な模様を観覧者に提供している。

例えば、野戦病院と化したガマ(洞窟)が爆撃に遭い、すんでのところで爆死を逃れ(しかし、僅かな距離の差で仲間が即死したことも触れられていた。)、また兵士の生死を目の当たりにし、死に対する感覚が麻痺したなどと語る姿は、およそ教科書では知りえない生の歴史を投影している。

しかも、非戦闘員である彼女たちは戦闘に翻弄された。というのは、戦局が末期的状況を呈した際、所謂ひめゆり部隊は突然の解散を命じられ、各々米軍の攻撃を避けるように移動したのである。

しかし、逃げ場を失った彼女たちは、あたかも戦陣訓が「生きて虜囚の辱めを受けず」と垂れたのを正しいものと受け止め、自決を選択し、また攻撃による死亡が原因となり、結果的には半数以上の犠牲を出すという皮肉な運命をたどることが強いられたのであった。

集団自決に関しては、本作ではその証言が強調されなかったので、最近の教科書検定における論議に決定打を与えることはなかったのだが、自決を慫慂(しょうよう)されたという様子が放映され、彼女たちは内国人にも棄てられたという印象を拭えなかった。また、自決の強制性については、強制の存否に関する判断基準をどこに置くかという問題があるが、史実を整理しておく必要があると思った。

だが、いずれにしても、人権意識がかなり向上したにもかかわらず、昨今の議論や「ひめゆり」を観て、我が国政府は未だに負の歴史と正対することを避けているように感じられるのだ。歴史の否定を続けている限りにおいては、未来の日本を語ることは難しいようだ。

もっとも、折が悪かったといえばそれまでだが、昨今の議論を踏まえた取材が含められたらば、この映画の価値はさらに上昇したかもしれない。

さらに、歴史を語り続ける難しさも感じた。世代交代が進む中で、生の証言が公にされる機会が減りつつある。後の世代が追体験をし、いつまでも風化させずに継受するためには、何が必要なのかも考えさせられた。

ロマンスやアクション作品のような商業映画を楽しむのもありだが、否定できない、歴史の必然として存在した犠牲を再確認するというのも、芸術の秋に相応しいのではないかと思うのだが、どうだろうか。

PS 教科書検定は客観一律的な教育の普及のために存在する制度であって、歴史家ではない検定官が歴史的事実を評価する場ではない。政府が歴史を徒に編集する作業は、美しい日本にはあるまじきことなのである。

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2007年10月 4日 (木)

独白

社会に複数の人間がいれば、争いの火種が常にそこにあるといっても過言ではない。また、傷つけたり、傷つけられたりすることもある。さらには裏切られることや意図せずして裏切ってしまうこともある。このようなことは、人間が感情を持ち合わせる存在であるだけに不可避なことだ。

筆者自身もかような経験を幾多も繰り返し、他人が信じられなくなるような感覚を覚えたものだ。

だが、それを乗り越える方法があるような気がする。それは衝突しそうな、あるいは不幸にも衝突してしまったときに、互いに真摯な謝罪の気持ちを表明できるかということではないだろうか。そして、全てを寛容に受け止める度量も摩擦や衝突を必要以上に大きくしないノウハウであるように感じている。

現代社会では、我を優先し、他人に配慮することが欠けがちだ。そのような状況にあっても、謝る、そして寛容であることを忘れてはならないのではないかと思った次第である。

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2007年10月 3日 (水)

近況

1 取り締まり

交通安全週間だと分かりきっていたのに、去る金曜日、阪急宝塚駅付近の一般道で取り締まられた。制限速度50キロのところを18キロオーバーで、反則金が12,000円也。

このような場合、鬱憤晴らしに文句を言うのがドライバーの常套手段であるが、言い争ったところで無意味なのは明らかなので、平謝りをして、早く書類を仕上げてもらった。反則切符を交付してもらった後に、父が心臓発作で手術を受けていると話したら(もちろん、それは虚偽のこと)、どのような対応になるか試せばよかったと思ったが、それは後の祭りである。

担当の警察官は「○○さん(筆者の名前)は、ここをよく通られるのですか?」と聞かれたので、逆にここでよく取り締まりをするのかと問えば、定点スポットであると返答され、さらに「お知り合いの方にも、この場所は注意するようにお話ししてくださいね。」と付言された。そのような面倒なことをいちいち他人に言わない。取り締まられるかどうかは自己責任の範疇だからだ。パターナリスティック(お節介的)なことをするほど、筆者は暇でない。

それで、取締りを受けた週明けに早速反則金を納付したが、納付書には国庫金と書かれていた。仔細に見ると、「内閣府、総務省及び財務省所管」として「交付税及び譲与税配布金特別会計」、「兵庫県警察本部」として「交通安全対策特別交付金勘定」という内訳になっていた。

気になったので、調べてみたら、反則金はいったん国庫に納入され、そこから各自治体警察に還元されるようだ。ただ、全額還元されるのか、それとも一部還元なのかは分からなかった(全額還元なら、わざわざ国庫に組み入れる必要理由はなく、かえって行政手続を面倒なものにし、不効率極まりない。)。それは個人的に興味があるので、交通反則通告センターに問い合わせてみようと思っている。国の財政構造を知る一端となりうるからだ。

ただ、反則金の使途については提案がある。交通安全対策費として還元されるのだろうが、それは標識や信号など物理的な設備投資として活用されるはずだ。しかし、そこには業者との癒着を断言できないにしても、利権があるはずだ。「交通利権」とでも表現すればいいだろうか。その利権のために反則金が支出されるのであれば賢いカネの使い方ではない。利権は不健全な支出であって、社会全体を益することはない。

そこで、筆者は反則金を交通遺児のための奨学金や生活支援金として活用することを提案したい。交通違反のペナルティーはその犠牲者に還元するのが最も衡平ではないかと思うからだ。そうすれば、ひょっとしてドライバーの意識が高まり、交通事故を少しでも低減させることができるかもしれないし、ペナルティーが単なるペナルティーではなく、良い方向で社会貢献ともなりえる。公金というのはそのような使い方をして初めて意味があると思う。

滅多に取締りを受けないだけに、反則金には無関心であったが、衡平な社会の実現のために、かようなことも必要だと感じた機会であった。

2 後期開始

8月は仕事を全く入れずに、完全オフ。9月は集中的ないしは散発的な仕事をして、糊口を凌いだ。今月からは通常のスタイルに戻る。ただ、前期と比較して仕事量は3割程度減ったことから、緊縮財政政策を実施していかなければならない。中には事情を察して、見返りを求めずにビジネス・チャンスを提供してくださる方もいる。本当にありがたいことだ。

ただ、筆者本来のあり方とは違う仕事をし続けてきて、正直なところ嫌気が差している。食うためならば選べないのであるが、そのために高等教育を受けたわけではない。本来の実力を持ち合わせていないのに、既得権益を得て、さも当然という顔をしている人間には嫉妬以上の感情が自ずと湧く。

いつか自分の力で見返してやると、内なる感情がマグマのように渦巻いているのを認識している。

3 将来は如何なるものか

自分自身も含めて全く分からない。不安感や焦燥感に駆られてばかりいる。作家・髙村薫氏は、「世界にはこの国よりはるかに貧しい国がいくらでもあるが、問題は貧困そのものではなく、それを取り巻く状況の希望の無さである。」とAERA最新号に寄稿している(86頁)。彼女の言葉は多くの人の気持ちを代弁している。未来指向だ、美しい国だとある時期喧伝されたが、ホープレスである状況を誰も変更できない。悲しきことに、権力を持った人間ですら変更できない。彼らが無能であることにも由来しているが、それ以上に見えない暗幕が我々を包んでいる。しかも、一点の虫食い穴さえなく、外の明るい景色を窺うことも、包まれることに抗(あらが)うこともできないのだ。

そして、やがては万人の万人に対する闘争が開始され(いやもう始まっているかもしれない。)、弱者は生きる権利を奪われ、人間界から淘汰されていく。その時がいつなのか、筆者は知る由もない。

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2007年9月13日 (木)

安倍さん、それ禁じ手でっせ。

先の参議院選挙の際に辞職を頑なに断り、外遊してから辞職ですか。税金を無意味に浪費せんどってよ。「何や、それ。なめとんか。」っていう感じです。次の歴史の教科書で、おたくの内閣のことを「僕、やめちゃう内閣」って、揶揄されますで。

職を賭して、と言ったのであれば、死んででも全うするのが曲がりなりにも「美しい」姿でっせ。政治家ちゅうもんは、信念を全うして政治家たりえるとちゃいますのん?小泉さんも色々あったけど、それなりに信念を持ってはったから、あないにできたんでっせ。

しかも、職を賭してという言葉、3日前のことなんですけど、何か急に心変わりすることでもありましたん?重要案件を前に難局を乗り切れないと感じて、敵前逃亡ですか。そんなにご自身の信念は折れやすいもんですの?参院選挙後の自信過剰な言葉は何やったんやろ…。

アッキー、絶対残念がってるで。政府専用機に乗って、タダで外国行ける機会をなくしてもうたって。次の外遊にアテンドするように誂えたお洋服が反故になってしまいますやんか。

まぁ、いきなり「僕、やめちゃう。」って、まさか週刊誌に脱税疑惑を取材されているのを気にしてはるのん?それやったら、笑えません。だって、美しい国を標榜しておいて、美しくないぢゃないですか。汚れまくってますやん。

国務大臣がコロコロ変わって、しかも内閣改造したら、1ヶ月も経たんうちに総辞職(憲法上、内閣総理大臣の単独辞職はない)。舛添さん、年金改革でテンション上げてるのに、顔立ちませんやん。彼だって、なんじゃそれって、ずっこけてまっせ。

防衛大臣も農水大臣もこの1年でコロコロ入れ替わったけど、諸外国から呆れられてますわ。仮想敵国の北朝鮮からは、明日の朝鮮中央放送でさんざん嘲笑されるのがオチ。ネナラ(北朝鮮政府の事実上の公式サイト)でも、言いたい放題されてしまうかも。


http://www.kcckp.net/ja/

ちなみに、ネナラはおもろいよ。各国の言語と比較してみると、微妙に記事内容がちゃうねん。つまり、言語別に相手国に対するメッセージを変えているんですわ。日本の場合は割に平易。これは日本政府が北のメッセージを十分捉えていないから、あちゃらの国が日本語でわざわざ平易に書いてある。でも、日本政府はそれを理解していない。これまた情けなや。

次の首相は、麻生太郎?彼は親分肌ではあるけど、もう時代が遅いよ。いっそのこと、塩川正十郎でも呼んで、ボケた内閣にしてもらわんと、これからシビアな国会運営になるのにもたんで、しかし。
と、居酒屋で酔いつぶれたオヤジのグチにしてみました。

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2007年9月 2日 (日)

1600キロの旅(8)

早朝に徳山を出て、途中柳井を経由しても、岩国にはまだ朝の気配が残っていた。まずは駐車場探しから始める。錦帯橋周辺の街並みは思ったほど広くはないが、城下町の名残なのか、案外整然としている。

小さい街をナビの案内に従ってゆっくりと走れば、錦帯橋の正面に出てきた。駐車場はその脇の河原を利用した非常に大きなスペースとなっている。車道から河原へのスロープを降りると、団扇を持った中年男性が仮設テントの下で、胡坐をかきながら、気だるそうな感じでパイプ椅子に座っていた。一応管理人なのだろう。彼に駐車代金は必要かと聞けば、「無料!バスだけ1000円。」と無愛想に返事を返してきた。あとは適当に駐車すればいいようだ。

Dscf08561河原は人間の拳程度の石で一面覆われ、あたかも石畳状になっている。そこに整理用の白線がしっかりと引かれていた。白線が引かれているということは普段それほど増水しないのだろう。自家用車だけでも200台以上は置けそうな広さだ。ハイシーズンになれば渋滞もあるかもしれないが、時間が早かったせいか、駐車された車の数は少ない。帰る時には結構な台数が駐車されていたが、それでもまだ余裕はあった。

早速車を降りて、周囲を見渡す。瀬戸内海まで距離的には近いのに、山々に囲まれ、落ち着いた雰囲気に包まれていた。観光地ではあるが、京都のように商売が猛々しいという感じでもないし、矢鱈と人が歩いている訳でもないからだろう。

京都や鎌倉は風情があって、それはそれで楽しめるのだが、如何せん御土産店の出店数があまり多く、景色や風情を味わうというより旅苞(たびづと)を買わなければならぬという強迫観念に駆られそうで、それが風情を大いに損なっているように思う。

Dscf08601河原で一息ついて、そのまま錦帯橋に向かって歩く。一日がまだ始まったばかりなのに、じわりと汗が流れてくる。橋畔まで歩き、石組みの橋脚や木組みの橋梁の裏側をしばし眺め、撮影した。きれいなアーチ状の橋架は横、斜め、下のどこから見ても素晴らしい芸術だ。単なる美術を超えた実用美術としか言い様がない。

そして、今度は渡橋するべく、関所のような橋頭の小屋で橋銭、岩国城に上がるためのロープウェー、岩国城の入城料がセットになった券を買い求めた。往復代金で930円だったが、それをほとんどの観光客が買い求めているであろう。今になっては「橋を渡ったら、ついでに城まで行けばいいですよ。」と言わんばかりに販売されたように感じている。自宅に持ち帰った本券(副券は各場所で千切って手渡す)には、岩国市と書かれているが、販売主体は岩国市なのだろうか、そしてそれが岩国市の財源になるのか少し気になるところだ。

Dscf08991 セット券を買った以上は頂上を目指さなければなるまいと、橋架を歩く。上から錦川を見る限りでは、その水深は決して深くなさそうだ。錦帯橋周辺の川底は橋脚の安定を図るためか、頭サイズぐらいの石が敷き詰められていた。Dscf09031 その上を鮎が悠々と泳いでいる。鮎釣り人も股下ぐらいまで水に浸かって、獲物を狙っていた。ただ、如何ほどの釣果であるかは分からなかった。

そこで周辺の写真を納め、対岸に渡った。対岸は吉香(きっこう)公園というところで、旧岩国藩主の吉川氏の居館があった一帯を整備したとガイドブックに説明されている。

夏日は筆者を容赦なく照らし、気温の上昇に伴って結構な消耗を強いられた。城見学をしたら、あまり歩き回ることをしないで帰りたいという気分になりかけていた。対岸には幾つかの展示施設があり、入場無料の施設もある。ガイドブックによると、岩国徴古館で岩国の郷土史を知ることができ、必見とまでポップが付けられていたが、それも後回しにして先を急いだ。チケットとして支払った料金の分だけは何とか見学しておきたいと思ったからだ。

吉香公園の一角にロープウェー乗り場があり、そこから約5分ほど昇れば、車中から岩国市を遠望できる。夏の気候であるせいか、やはり遠くは霞んでいて、瀬戸内海の景色が十分に目視できなかった。終点から10分弱ほど坂を上がると、岩国城に到着する。

ここで入口で半券を渡して、さらに天守閣を目指す。どの城も戦後に復興再築されたものが多く、城の魅力はほとんどない。島原城と同じく展示物にはほとんど目もくれず、階段を昇ったのである。

Dscf08851 天守閣の位置は標高300mぐらいはあるだろうか、さすがに展望は開けている(写真は瀬戸内海を望む。沿岸には米軍岩国ベースがある。)。錦帯橋が小さく、箱庭を見ているようで面白かった。ただ看板に周囲360度のパノラマと題されていたが、実際北側の展望は山か山陽新幹線の新岩国駅しか見えなかった。それも展望というべきか…。

天守閣でも何枚か撮影し、そのまま麓に下りた。行きのロープウェーに乗る時に、帰りには岩国徴古館を見学して、詳しく錦帯橋の勉強をしようと思っていたのだが、麓に戻ってきた時にはそれをすっかり失念してしまい、帰宅してから後悔したのである。

麓に下りてきた頃はお昼時でもあったので、地元の名物料理である岩国寿司を食べようと、平清という店に入った。前の晩と翌朝はコンビニの食事だったので、最後に少し洒落ておきたかったからだ。

2階の座敷に案内されると、道を隔てて眼前に錦帯橋があり、風景を眺めながら食事を楽しめるようになっている。ただし、窓際(窓際の食卓は2脚しかない)を陣取らないといけない。

喉が渇いていたので、とりあえずノン・アルコールビール。その後に、ざる蕎麦と岩国寿司を組み合わせたセットメニューをオーダーした。供された料理は上品な組み合わせで、見た目の良さが印象的だった。やはり肝心なのは岩国寿司だ。Dscf09121約10cm角に切り分けられた寿司の彩りは、田麩や錦糸卵などで艶やかだ。ただ、酢飯も含め全体的に甘く、切り分けられた以上に追加しようとは思わなかった。 もちろん、名物だけに美味しく頂いたのは言うまでもない。見た目にも楽しめる寿司がいつの時代に定着したのは分からないが、美味しい名物を口にして、旅の記憶を深めることができたのでそれで十分だ。甘い目の寿司が好きなむきなら、気に入る一品だろう。

もっとも、店内は和風の落ち着いた設えであったが、来店客の具合によっては落ち着いて食事をすることが難しいかもしれない。実際、筆者は3人客と4人客のテーブルに挟まれ、否応に話を聞かされるようにして食事をしなければならなかった。それについては正直うんざりした。これは店の責任ではなくて、運が悪かったということだが。

岩国での昼食が旅の最後の締めくくりとなり、あとは神戸に向かうだけになった。河原の駐車場に停めていた旅の相棒と錦帯橋をバックに1枚納め、記念にした。まだ神戸まで戻らなければならない任務があるが、山陽道から九州域内を期待通りに走ってくれた。

西へ沈んでいく太陽を背にしながら、神戸までひた走り、無事着いたのは午後6時前。積算メーターはおよそ1600kmを超えていた。また、相棒を駆って、出かけたいと思った旅だった。

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2007年8月28日 (火)

1600キロの旅(7)

ホテルで興醒めの食事をした後、パソコンを繋いでメールを整理したり、翌日の行程を調べたりした。今回は自家用車での移動だったので、ノートパソコンを携帯してきた。ネット時代にあっては、ホテルでの宿泊にLANサービスは必須のものだといえる。

しかし、またもや問題が起きた。部屋に空調装置がなかったのだ。つまり、室温のままで就寝する破目に陥ったのである。ヤフーでネット予約をした際に、事前にチェックしなかったのは当方の落ち度というべきかも知れないが、空調ぐらいは通常完備しているだろうし、宿泊客も当然のように室温調整ができると思うはずなので、いささかがっかりした。宿泊代金が安かったのはそれが理由なのかもしれない。

もはやフロントに掛け合う気力もなかったので、10センチぐらいしか開かない窓を開放して寝ることにしたが、実際は暑さで何度か目が覚めたのであった。以前、早春の金沢に出張した際には空調をオフにしても暑く、やはり窓を開けたことがある。外は雪が降っていたので、風邪を引くかと思ったが意外と快適になり、そのまま朝を迎えたことがある。今回は夏なので、窓を開けても気休め程度にしかならなかった。

最悪といえばそれまでだが、次からこのホテルを利用しなかったらいいだけの話なので、特に文句を言うことはしなかった。

熟睡できなかった寝苦しい夜からいよいよ旅の最後の朝を迎えた。最終日の予定は岩国に立ち寄って、錦帯橋を見学することだ。ホテルの朝食を摂ってから移動しても良かったのだが、それなりに早起きしたし、地道で岩国に向かえば時間的にも丁度良い頃合いになるのではないかと思った。そこで、チェックアウトをするや、昨晩弁当を買ったコンビニで栄養補助食品と飲み物を買い込み、周防灘に沿ってしばらくドライブすると決め込んだのである。

周南市を出発して、下松市、そして光市と順調に進む。下松までは臨海工業地帯となっており、大工場が海沿いにひしめき合っている。かつて教えた学生が下松出身でどのようなところか興味があったが、運転席からは目を引くものが特に見当たらなかった。ただ、地図を見ると、笠戸島にはキャンプ場や海水浴場があり、地元民の憩いの場となっていそうだ。

光市は報道などで有名な母子殺人事件の舞台となったところだ。あの事件のことをここで触れるつもりはないが、家族を失った悔しさを滲ませる夫のM氏の気持ちを忖度すれば、掛けるべき言葉が全く見つからない。少年の弁護団の態度は世間の顰蹙を買っているが、道義的な非難をしえても、法律的な非難をしえない。法律的非難はあくまで裁判所が決定することだからだ。

下松から光までの国道188号線は右手に周防灘を眺めることができ、早朝のドライブには悪くない。窓を全開にして走りたいぐらいだったが、実際には対向車の排気ガスや蒸し暑さのために、エアコンを効かせながら走らなければならなかったのは残念だった。しかし、近くには徳山湾周辺の島々、遠くには靄で霞んだ国東半島が一望できた。

光市の東端からは周防灘と別れ、少し内陸に方向が向き、柳井市に入る。柳井市は金魚が有名で、金魚ちょうちん祭りなるものもある。大きなイベントとなっているようだ。柳井が金魚とどのような関係にあるのか、それは分からなかったが、京都のような古い町並みも残されており、風情や趣きがあった。

折角柳井を経由するのだからと、時間があることに任せて、佐川醤油店を訪れてみた。ガイドブックを頼りに朝一番から車で行ったにもかかわらず、迷惑そうな顔を微塵も見せず醤油蔵を見学させてくれたのである。蔵の中にはかつて使われていた道具や商品が陳列されており、その奥に高さ2m以上もある大樽が幾つも並んでいた。目の前で醸造過程の一部を見ることができるとは大変興味深い。

Dscf08511 幅10m、奥行き30mぐらいの蔵の中は一面に麹の香りが漂い、非常に芳(かぐわ)しい。芳香がきついと気分を悪くするものだが、自然の香り、しかも口に慣れ親しんでいるものであるせいか、クセがなく、なんとなく落ち着く。

しばらく見学した後、無料で見学させてくれた代わりに、醤油を一本購入した。若い職人に幾つか質問を投げかけた。それによると、ここで醤油ができるまでには4年かかるということだ。筆者は大手麦酒メーカーが機械で麦酒を醸造するように、それほど長い時間を要しないと思い込んでいたので、それを聞いて少々驚いた。しかも、「これらの大樽は観光用にディスプレイされているものか」と問えば、そうではなく、機械には頼らず、まさにこれで全て醸造していると教えてもらい、感心したのである。その他にも、柳井で醤油造りが行われている理由なども聞きたかったが、勝手に邪魔をして仕事中の職人に案内係をさせるのは不躾だと思い、それ以上何も聞かなかった。気軽に質問できる案内係がいてくれたらいいと思った次第である。

ちなみに、購入した醤油のは刺身醤油で、帰宅してから舐めてみると、かなり濃厚で大量生産品には敵(かな)わない風味があった。皿の上で延ばせば、しっかりと皿面に乗っている。料理に詳しい同僚に聞けば、それはとても品質のいい醤油だそうだ。

簡単に礼を言い、趣のある佐川醤油店を後にし、ゆるやかな峠道をカーナビに任せて走った。錦帯橋までは地図上で約30km、時間にして1時間丁度ぐらいの行程だ。新車にしてナビを装着したが、全く迷うことなくぴたりと移動できるのは本当に効率的でいい。

実際、佐川醤油店を出たのが8時半過ぎで、錦帯橋に到着したのは9時半だった。徳山から岩国まで山陽道を利用しないでよかった。柳井に少しでも立ち寄れた満足感に満たされたからだ。

地道を軽快に走りながら、最終目的地の錦帯橋に到着したのである。夏日がいよいよ厳しくなりそうな時間となっていた。

続く

※長い連載ですが、次回がシリーズ最終回となります。※

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1600キロの旅(6)

回天記念館を後にして、来た道を下っていく。途中、船着場周辺の風景が目に付いた。その奥には集落があり、一体ここで何代の人達が生活を営んできたのかふと思ったりした。

Dscf08431船の時間までは若干時間があったので、船着場近くの防波堤から周防灘に浮かぶ発射訓練基地を遠望しながら撮影した。 夕刻なのに、まだ陽が高く、海面は煌くというよりは煌きすぎて白くなっていた。一眼デジカメで露出補正を試みるが、適度な具合の調整がうまくいかなかった。

オレンジ色の夕陽が水平線に沈む頃、感激するほど美しいに違いない。しかし、同時に烈士達の姿を思い出すと、逆に感傷的になりそうな海だ。

今でこそ本当に長閑で、防波堤に座りながら何時間でも海を眺めていたいという気持ちにさせられるが、当時はとてもそのような雰囲気ではなかったはずだ。もっと殺気立った雰囲気をイメージするが、なかなか湧き出てこない。筆者の想像力が貧困だからか、それとも眼前の海があまりに凪いでいたからか…。

船着場には、地元民と徳山港に戻る観光客が船を待っていた。総勢30人ぐらいいただろうか。観光客は行きの船で乗り合わせた人だった。筆者は発船時刻の15分ぐらい前に待合室で徳山湾を眺めながら待っていた。

しかし、予定時刻になっても船が来そうな気配がない。他の観光客も待合室の壁に掛けられた時刻表を何度も見ながら、どうしたのかと少々不安げだ。対して、地元民は世間話をしながら待っている。彼らにとっては別に珍しくないことなのだが、時間に急かされる都市生活者はそのような些細なことですら気になる。やはり、ここは時間の流れが違うのだと下船した時の感想を反芻したのである。

そうして予定時間を過ぎること15分ぐらい経過し、汽笛を鳴らした船の姿がやっと見えたのであった。しかし、大津島から乗り込んだのは観光客だけで、地元民は船から降ろされる荷物を受け取っていた。船は貨物運送の役割も果たしていたのである。

帰りは少々白波が立つ海を航行することになった。2階席は屋根以外の遮蔽物はなく、舳先で切られた波飛沫が時々顔にかかった。だが、それはそれで情緒があって悪くはなかった。途中一箇所寄航し、子供が多い海水浴客を乗船させて徳山港に向かった。夕陽は島影に隠れて、目にすることはできなかった。

徳山港に戻ってからは、あらためてホテルでチェックインし、一服してから徳山の街に繰り出すことにした。繁華街を歩けば、その街の活性度がよく分かる。上手くいけば、会話から地元住民の way of thinking まで分かり、生きた情報を得られることになる。

投宿していたホテルはJR徳山駅の南側に位置し、東向きの部屋だった。窓からは左手に新幹線のホームがほぼ水平の目線上にあり、正面やや右手には重化学工場の煙突が見え、そこからもくもくと排煙されていた。夜になって気付いたのだが、この高い煙突の先端から橙色の炎が出ていた。地図の上では日本ゼオン徳山工場となっている。

ホテルを出た筆者はJRの下をくぐる地下道を歩き、駅の北側に出た。地方都市は決まって街の構造がワンパターンだ。駅前に目抜きの大通り(しかし大通りはそこだけというのも一般的だ)、そしてその脇には商店街か繁華街で固められている。徳山にしても然り。

駅前でいったん周囲を見渡し、大きなロータリーがある大通りを市役所前という交差点まで何となく直進してみた(約400m)。途中、脇道に視線を遣り、目ぼしい店はないかと注意していたが、足が向くようなものはなく、結局交差点でUターンして駅前まで戻ってきたのである。

070809_183640この大通りを歩いて面白いことに気付いたのである。 何箇所か大通りを横断する歩道があったのだが、どれも信号がないのである。いくら見通しが良くても道幅約20mはあるだろうし、路線バス、タクシー、自家用車の通行がそれなりにあるにもかかわらず、である。よく事故が発生しないものだと感心した。筆者も一度歩いたが、偶々通行車両が途切れていた時だったのでスムーズに渡れたが、ラッシュでも信号を必要としないということなのだろうか、それともドライバーの謙譲精神が徹底しているのか、どちらかとしか考えられない。

駅に戻ってきて、どうしようかと迷ったが、今度は方角を変えて繁華街の方に足を向けた。最初から期待しないつもりだったが、やはりという感じであった。福井でも経験したことだが、どこもシャッター通りなのである。夕刻なので、営業を終えている店もあったかもしれないが、それでも完全に陽は落ちていない時間である。人がほとんど歩いていない、ただそれだけで街の活性度はゼロに近くなる。目に付いたのは、全国規模の居酒屋チェーン、カフェ、パチンコ屋、コンビニぐらいのものだ。それすら繁盛しているとは思えないような雰囲気だった。

街の活性化は、よく魅力作りからと言われるが、それではあまりに抽象過ぎる。確かにその通りだが、具体的にはそれなりの収入が確保できる職場があるかどうかではないだろうか。若者が地元を棄てて、大都市に移転するという話は珍しくないが、それは若者なりの好奇心や野心があるということに加えて、地元に住み続けようという吸引力がないからだと思っている。沈滞するばかりの地方経済に雇用創出というのはかなり困難な課題であるが、国の政策として真剣に考えなければならないところである。それが美しい国のひとつの姿ではないだろうか。

話を戻して、さすがに九州からの運転で疲れたので、諦念してホテルに戻ることにした。途中、お土産屋で家族と同僚に持って帰るためのギフトを買い求め、再び地下道をくぐり、仕方なくホテル脇のコンビニで弁当と数種類の酒を買い求めたのである。旅先でのコンビニ弁当は本当に興醒めだが、それ以上に沈滞化する地方の現状に、就任当時首相が連呼したスローガン(しかも彼の地元)が白々しく思えて、狭い室内での酒は美味くなかったのである。

煙突から煌々とする炎と山陽新幹線の前照灯だけが、暗くなった徳山の市街地を照らしている。ホテルの窓からそれもまた物悲しく見えたのであった。

続く

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2007年8月27日 (月)

1600キロの旅(5)

発射基地跡を後にした筆者は、トンネルを戻って、今度は山手の方に歩んだ。鬱蒼と茂った木々をくぐりながら上り坂になっている小道をしばらく歩いたのである。途中、ほとんど手入れがなされていない茶屋があったので入ってみた。養浩館という名称だった。入口に自動販売機があったので、喉を潤したかったのと、気まぐれな好奇心からである。

薄汚れた白いドアを引いて足を踏み入れると、室内は電気すら点灯されておらず、気味悪さを感じさせるような薄暗さだった。エアコンすらない10畳ぐらいのスペースには埃が被ったテーブルと椅子、壁には回天烈士達の写真が掛けられ、掃除が行き届いていないショーケースには所縁の品物が並べられていた。どれもこれも経年劣化を否定できず、古ぼけていた。全くと言っていいほど人気(ひとけ)を感じず、どのように管理がなされているのか、ふと気になった。

もう少し見回すと、小さな対面カウンターがあり、そこには回天に関する小冊子が販売されていた。買おうと思ったが、どのように代金を支払えばいいのか分からず思案していたら、勝手口に管理人と思しき中年女性の背中が見えた。背中越しだったので彼女は何をしているのか分からない。

室内の重苦しい雰囲気を払いたかったので、その女性に声を敢えてかけ、回天記念館はこの先かと、どうでもいいような質問をした。彼女は愛想良くもう少し歩けばいいと答えてくれたが、それが建物の雰囲気と不釣合いでおかしかった。

この建物には、筆者が入った部屋と同じぐらいのスペースが対面カウンターの先にあったが、こちらも座ることすら躊躇われるような汚さだった。一体、この建物は何のためにあり、管理人の女性は何の目的でここにいるのか理解できなかった。

実は後悔することがあった。対面カウンターに積んでいた小冊子(といっても、装丁はしっかりしていて、重量はあった)を帰りに買おうと思ったのだが、回天記念館の見学を終え、帰り道に立ち寄ってみれば、閉店していた。筆者が立ち寄った時間は閉店時間をわずかに過ぎたばかりだったので、余計に口惜しかったのである。皮肉を言えば、もともと来客が考えられない店に閉店時間だけは立派にあるのかというところだ。

話を戻して、筆者は失礼のない限りで礼を言い、上っている小道を50メートルほど再び歩いたのである。小道に覆いかぶさっているような雑木林の切れ目を抜けると、目の前に整備された敷地と建物が正面に視界に広がった。Dscf08151 これまで歩いてきた小道とは非常に対照的な風景だ。それが回天記念館だった。その雰囲気は鹿児島にある知覧特攻平和会館と同じものを感じることができる。

前庭から記念館までのアプローチには、A4サイズ程度の切石各々に回天烈士達の氏名が刻まれていた。あたかも両脇に並ぶ烈士達に迎え入れられるようにそのまま歩めば、回天の推進装置(実物)と回天のレプリカが玄関入口脇に据えられている。Dscf08161

小奇麗な建物に入館すると、エアコンのほどよい冷気が火照った身体を冷やしてくれた。小さなカウンターにいた職員に入館料を支払い、撮影は可能かと尋ねたら、差し支えないと快諾されたので、展示物を見学しながら同時に遠慮なく撮影もした。できるだけ多くの人に、昭和史の断片として、回天の存在とその歴史を知って欲しいと思うので、これは本当に有り難かった。

大抵の資料館などでは静謐性を保持するためか撮影を厳禁しているのがほとんどだ。もちろん美術館などでは著作権の侵害が想定されるので、禁止は首肯できるし、それは止むを得ないものだ。しかし、可能な限り多くの人に状況を理解してもらうためにも事情が許す限度で撮影を認めるのがいいのではないだろうか。広島の平和記念資料館(原爆資料館)はフラッシュを使用しなければ撮影するのは自由なのだから。

もちろん、他の見学者の邪魔にならないように、なるべくフラッシュは使用せず撮影したのは言うまでもない。

ところで、館内は平屋の造りで80畳ぐらいのスペースほどある。壁際に展示物や回天作戦がどのように進んだのかを説明するパネルが陳列され、それに沿って一周すれば全て観覧できるようになっている。館内中央にはB5ぐらいの大きさに仕上げられた回天烈士の遺影が掲げられている。また、一角にはビデオブースが設(しつら)えられ、回天訓練要員だった生存者による当時の模様がエンドレスで放映されていた。訓練方法、生活、当時の心境など、淡々と、しかし主観を交えない丁寧な彼らの語りに引き込まれた。

内容自体は非常に興味深く視聴したが、約30分ほどの長さだったので、帰りの船の時間までにその他も観覧できるか多少不安であった。実際見学に行くならば、館内の見学時間を1時間強とみておけばといいだろう。

展示物を各々解説するには冗長になるし、心に残った展示物は撮影したので、後にフォトコーナーで公開し、そこで詳細な説明を加えることにしたいと思う。

ただ、烈士達の気持ちを綴った手紙や遺筆を読めば、国家を護る大義を奉命し、死を以て報いる気持ちが文章、いや筆そのものの勢いから滲み出ていた。ある烈士は誠の気持ちから勇んで特攻することを無上の喜びとしたかもしれない。あるいは別の烈士は家族や自身にとって大切な人と永遠の別離をしたくないと強く思ったかもしれない。

しかし、烈士達がどのように思うものであっても、全ては国家の都合で命が左右されてしまう無常さ(無情さとも言える)を筆者は痛切に感じたのである。彼らの心の奥底にも、かかる気持ちは幾許か潜んでいただろう。

国家の都合で心ある人間が心ない兵士に変えられ、殺戮場へ送り込まれていく。良心の呵責に苛まれながら、引き金を引き、発射ボタンを押す。自分の命、いや大義を守るためにはそれしか術がないのだ。戦争は結局国家の面子保持のためだけに行なわれるものであって、誰のためのものでもない。無常なものなのだ。そして、その無常さを克服できるものだけが生き残れる仕組みなのだ。

多くの烈士が太平洋に散華したのと引き換えに、指揮官はどうだったのだろうか。戦後、何の呵責を感ずることなく畳の上で寝食したのだろうか。もしそうならば、無常の死に追いやったその責任は厳しく処断されなければならない。

東京裁判は政府・軍の中枢部だけを対象にした復讐裁判的な要素であったのは否めないが、戦勝国が裁くのではなく、国民裁判で裁くべきだった。これができなかったために、我が国の精神的終戦は未来永劫果たせないことになった。

展示物を丹念に読みながら、烈士の本当の気持ちを探ろうとした。しかし、それを汲み取るには、観覧時間が短すぎた。

もし彼らが戦後の日本を知ったら、何と思うだろうか。喜ぶだろうか、それともあまりの堕落振りに嗟嘆するだろうか。平和であることを無上の喜びとしなければならないが、他方で烈士達の彷徨う魂をどこで鎮魂すればいいのか、考えさせられた。

館から外に出てみれば、青空の下で蝉がワシワシと鳴いている。招魂碑にて黙祷を捧げた後、筆者は館を後にしたのであった。

続く

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2007年8月22日 (水)

写真公開

「1600キロの旅」の写真を公開しています。まずは前半の日程分を「マイフォト」コーナーにアップしましたので、ご覧下さい。

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2007年8月20日 (月)

1600キロの旅(4)

博多での2泊目が明けた。目覚ましは7時にセットしていたが、その前に起床した。前日の疲れが残っていてもおかしくはなかったのだが、なぜか疲労感はなかった。

九州での予定は全て消化したので、そのまま徳山に移動してもよかったのだが、博多を後にする前にもう一度祖母の墓に参ろうと決め、すぐにチェック・アウトをしたのであった。自家用車だと思うように動けるのがありがたい。

霊園の開園は8時であったが、7時半にはゲートが開いていたので、そのまま入場した。簡単なお参りをしただけだが、首筋には早くも汗が滴り落ちる。霊園から博多の市街が一望できるのだが、遠望する限りでは市内の騒々しさは全く想像できない。ただ、聞こえてくるのは蝉がワシワシとせわしく鳴く音と福岡空港から離陸する飛行機のジェット音だった。しかし、蝉の声がジェット音に勝っていた。

霊園を後にしてからは、時間的な余裕から地道を博多駅近くまで走り、いよいよ徳山に向けて高速道を疾駆し、山陽道の山合を走って、徳山にはほぼ正午頃に到着した。ほぼ予定通りの流れに安堵する。

ここは、初めて来た土地だったので、運転をしながら視線は右に左にせわしない。事前にどのような土地なのか調べずに来たものだから、街の雰囲気を掴むのが難しかったのが最初の感想だ。ただ、市街から歴史を感じるという雰囲気がほとんどなく、戦後に開発された、しかも再開発を経てこなかった様子で、建物は軒並み古ぼけていたのが印象的だった。

ホテルに荷物を預けて、すぐ近くのフェリー乗船場(回天記念館のある大津島行き)から周囲を見渡すと背の高い煙突が何本も立っていて、工業地帯であることはそれだけで分かる。Dscf07801帰宅した後に、wikipediaやGoogleマップで調べてみたら、石油関係企業が密集しているのが分かった。地理は教科書で学ぶ以外にも実際の見聞などで理解することもできる。座学が苦手な筆者は、こうして少しずつ知識を溜めているのである。

大津島行きのフェリーが出港するまで小一時間あったので、辺りを手持ち無沙汰のまま散策して、時間を潰した。エアコンがない待合室には数人の老婆がベンチに座り、世間話に花を咲かせている。散策したのは、老婆の世間話を耳にしながらベンチで待つことができなかったからだ。目の前に乗る予定の小型フェリーは既に停泊しているのに、出港時間の間際まで乗船できなかったのは疑問だった。

とにかく乗船時間となり、エアコンの効いた客室で一息つけば、一階席は地元の老婆たち、二階席は10名足らずの観光客で占められた。観光客の行く先は筆者と同じであることが容易に想像できた。なぜなら、観光客はそこしか行く場所がないからだ。

徳山港を出たフェリーは、徳山湾内にある仙島、黒髪島を掠めるようにして大津島に向かって進む。波は非常に穏やかで、舳先が波を切る音とフェリーのエンジン音がデッキに響いていた。Dscf07912 船から見る限りでは仙島や黒髪島には人家が見当たらなかった。波打ち際からすぐに岩壁が急斜面となり、見た限り高さ50メートルぐらいの山になっていた。恐らく人気(ひとけ)がないのは平地のない島だからだろう。

しかし、よく島々を見れば採石の形跡があり、航路の裏側(島の反対側)では島を切り崩して採石作業中の箇所も見ることができた。

筆者は暇をもてあましては、時々後部デッキに出て、これらの島や徳山市街を海から撮ってみた。Dscf07811 気候のせいか、潮風が全身にまとわりつくような感覚を覚えた。海から市街を見ると、何とこじんまりした街なのか。少しずつ遠くなる景色からJR徳山駅とその周辺部のビル、工場群だけが目立ったいる。だから、余計に街の無機質さを浮き彫りにさせているのであった。

今から行く所がどのようなところなのか期待しながら、約1時間弱の乗船で大津島に到着したのである。船はここが終点だったので、乗客は全て下船した。港というにはあまりに小さくて船着場と表現した方が良いかもしれない。そこで、またぐるりと見渡してみた。近くに集落やバンガロー、学校などを目にすることができた。しかし、概して鄙びた感は払拭できない。それは仕方のないことだ。

時間が止まっていると書けば大袈裟だが、少なくとも都会で齷齪(あくせく)した生活を送っている筆者にしては、何もかもがスローに感じた。いや、都会から来た多くの人は同感のはずだ。もっとも、そのスロー加減が新鮮だと感じるか、退屈と感じるかはまちまちかもしれないが…。

帰りの船便が多くないために、それほどのんびりと空気を感じている暇はない。案内看板に促されるままに、早速回天発射訓練基地跡に足を向けたのである。

「天を回らし、戦局を逆転させる。」これが人間魚雷「回天」の命名由来である。太平洋戦争末期に戦局が逼迫した状況の中で、旧日本軍は兵士を兵器に利用し、厳しい状況を打開することを手段として考えるようになった。それが特攻であり、回天はその道具として開発されたのであった。

整備基地から発射訓練基地まで繋ぐトンネルを約5分ほど歩いた。このトンネルは当時のままを可能な限り残し、距離はおよそ400メートルぐらい、坑内の高さは5メートルぐらいで、足元には回天を運搬するためのトロッコを敷設した軌道がコンクリートで塞がれていた。Dscf08131 トンネルの途中は、大きなホールのようになっており、そこには当時の写真が展示されていた。トロッコ跡もここだけ複線になっていた。

そして、薄暗いトンネルを抜けると、右手に周防灘、左手に基地跡が眼前に広がった。好天のせいもあり、周防灘の海面が眩しく光っていたのが幻想的だった。

基地跡は転落を防止するためにフェンスが張られていたが、建物に切り込みを入れ、トロッコで運搬した回天を吊り上げ、そしてその切り込みに沿うように海面に吊り下げたようだった。

Dscf08021 キラキラと輝く海面から訓練のために出港した回天烈士たちはどのような心境だったのだろうか。天皇のため、皇国のため、家族のため、いずれは我が命を犠牲しなければならない時がやってくる。まさにその瞬間のために日々厳しい訓練を行なったのであろうが、本心は早く終戦し、穏やかな周防灘を眺めてるだけでいい日々を所望しただろう。少なくとも何人かの烈士はそう思ったに違いない。

続く

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2007年8月16日 (木)

1600キロの旅(3)

島原から帰ってきたのは、夕方6時半前。雲仙温泉で昼食を摂ったのが3時前後だから、約3時間かけて戻ってきたことになる。高速道路では帰宅ラッシュに若干巻き込まれたが、ほぼスムーズに戻ってこれた。

いったんホテルの駐車場に車を預け、西鉄福岡(天神)駅で遠縁の姉と落ち合った。どこの店に行きたいかと聞かれたが、よく飲み歩いている姉に任せた方が楽だったので、櫛田神社近くの「せいもん払い」という居酒屋に案内してもらった。去年、櫛田神社に遊びに来たので、その近くということを知って少し驚いた。博多の地理関係はそれなりに頭に入っているはずなのに、まだまだということを思い知った。

せいもん払いは、聞けば、なかなかの人気店で普通は予約しなければならないということだったが、幸運にも15分ぐらい待ったところで席につけた。ちなみに、店名となっている、せいもん払いというのは、11月中頃に行なわれる大売出しのことである。

http://www.hakata-kasaya.co.jp/hakatagaku/seimon01.htm

祖母が亡くなって、太宰府に納骨されてから墓参するようになり、遠縁の姉とも顔を合わせるようになったのは、ここ数年のことである。それまでは、幼少の頃に何度か遊びに連れて行ってくれたことがあったぐらいだ。なのに、今でも「ちゃん」づけで呼ばれる。全く不快な気はしないが、いつまで経っても子供なんだろうなと思った。

せいもん払いで、新鮮な魚料理を堪能し、その後は西天神の大名小学校前にあるラウンジ蛮で、ジャズを聴きながらバーボンを楽しんだのであった。蛮は去年から引き続いて2回目だが、ママさんは筆者のことを覚えていて、さっそく小曽根真氏の新譜を流してくれた。CDのセレクトといい、選曲といい、ママさんのセンスが光っていて、なかなか居心地が良い店だ。関西でもこのような店があるといいなとも思った。

結局、姉と他愛のない話をしつつ、夜も更けてきたので、投宿先までタクシーで送ってもらい、別れることにした。

博多での滞在は、この夜で終わり、翌日は徳山まで約200キロ余りの移動となる。テレビを観ても、特に面白いものはなかったので、シャワーを浴びて、就寝することにしたのであった。

続く

PS ホテルに戻ってきて、あっと思ったのは、ご当地グルメとして昨今取り上げられている佐世保バーガーを食べ損ねたことであった。次回は食べ歩きをしようと思っている。

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2007年8月14日 (火)

1600キロの旅(2)

1泊目の夜は、暑さのためか寝苦しくて、何度か目が覚めた。普段寝付くと、寝だめができるぐらい熟睡できるのに、なぜか分からなかった。

それでも6時過ぎには起床し、身支度を済ませて、7時過ぎには島原へ車を走らせていたのであった。市内からだと、福岡都市高速から九州自動車道の太宰府インターまで一気に行ける。そして、鳥栖ジャンクションから長崎自動車道に乗り換え、諫早インターで降り、島原半島の外周を伝う国道251号線を、有明海や島原湾を左に見ながら走れば、島原に到着する。

そうして11時前には、最初の目的地である雲仙岳災害記念館に到着したのである。車から炎天下に降り立ってみると、同記念館の眼前に甚大な被害をもたらした普賢岳が静かに聳え立っていた。普賢岳は、平成2年に噴煙が確認され(約200年ぶり)、8年に終息宣言が出されたが、今でも山頂付近で目視できるかどうかの噴煙を上げている(望遠鏡でははっきりと確認できる)。

Dscf07161 それに、この記念館が立っている地は、火砕流や土石流(火山灰や噴石の泥流)の被害に遭った地区で、現在ではすっかり整備され、その片鱗すら窺えなかった。だから、一見した限りでは、当時の被害の程度が即座にイメージできなかったのであった。

駐車場から普賢岳と記念館の外観を何枚か撮影し、入館した。案内役を務めるコンパニオンに促され、館内にそのまま足を踏み入れると、決して広くはないが、スポット照明で空間の狭さを意識させないスペースがそこにあった。団体客が来ない限りでは、ゆったり観覧できそうな感じだ。実際、筆者は平日に行ったのだが、個人(家族)客が主だったので急かされることはなかったのである。

館内のメイン展示は、CGを活用した噴火の再現映像(約8分)、被災した物品の展示、当時の実際の映像ということころだ。その他にも、火山の構造や地震予知システムや噴火監視活動の解説パネルもあった(普賢岳も監視対象となっている)。

再現映像は、100人ぐらい収容できる立席観覧なのだが、雰囲気を演出するために、映像に合わせて観客席が揺れるような仕組みとなっていた。これは、神戸にある人と防災未来センターでも同じようなものがあり(娯楽ではUSJにあるバックドラフトというアトラクションも同じ)、最近の展示の流行なのかもしれないが、過剰な演出で余計なものだと思った。客席を揺らしたところで、実際を体験するものではないからだ。それがために、公金が投入されているとなれば残念なことだ。中途半端な演出は本当に知りたいという人間にとっては白けさせる以外の何者でもない。

CG映像を見終えて、映像室を出ると、火砕流で溶けた公衆電話機、家財、中継用テレビカメラなどの被災物品の展示があった。火砕流ではマスコミ関係者が多く犠牲となった。スクープ映像の撮影・中継を優先したばかりに、火砕流に飲み込まれたのだ。展示されたテレビカメラは物言わぬ証人として、当時の雰囲気を伝えている。

それは次のコーナーにある実際の映像で誰でも理解できるようになっている(ちなみに、上記の雲仙岳災害記念館をクリックすれば、館内で放映されている映像と同じものをネットで閲覧できる)。ただ、この閲覧するための装置も奇を衒って、一般的な大人と等身大の携帯電話を模した装置に、普賢岳に変化があった日付を入力して映像を放映させるのだが、屈まなければボタンを押せず、難儀した。これも、なぜこのような仕掛けが必要なのか理解できなかった。子供にも映像に親しんでもらおうとした細工なのかもしれないが、映像の内容は子供には簡単に理解できそうにない。やはり、普通のタッチパネルでよいのではないかと、憤慨こそしなかったが、疑問を感じたのが正直なところだ。

ところで、自宅に帰ってきてから、展示内容のあり方を考えてみたが、物足りなさを感じた。確かに当時の模様を伝えるという部分では十分足りている。しかし、大規模災害に対して、どのような課題が浮き彫りになり、それに対してどのような対策がとられたのか、政府と地方の取り組みが詳細に紹介されるべきではなかっただろうか。災害記念館の設立目的がどのようなものかは知らないが、後世に教訓として具体的に伝えるためにも、資料の公開やパネル展示に力を入れるのも一興だと思う。いや、そうすることで展示の価値がより高まるであろう。

そうして、約1時間ほどの観覧を終えて、出口までの途中、喫茶コーナーがあった。そこで立ち止まれば、右手には普賢岳、左手には島原湾を一望できた。この時期は大気中の湿気の関係で、やや霞みがちだったが、春や秋には遠望が期待できそうだ。

いったん館外に出て、違う角度から撮影していたら、同僚から電話がかかった。彼は筆者が九州旅行に行っているのを知っていて、どこにいるのかと訊ねてきた。島原だと答えると、母方の実家であり、亡父の勤務地でもあったので詳しいという。色々と勧められて、本来の予定にはなかったが、島原城に上がってみることにした。

Dscf07431 島原城には、島原所縁の甲冑や刀剣類などの展示が多く、その辺りはほとんど興味がなかったので、ちらっと見るだけで、汗をかきながら階段を上がって天守閣を目指した。友人に、城が好きな者がいて、有名な城は大抵行ったという。筆者は、どちらかといえば、観光地に来たから一応城も見ておこうというぐらいで、島原城もその類いだ。

そして天守閣に上がれば、筆者を待っていたは、島原の眺望ではなく、かき氷屋だった。確かに、暑いから商売として成立しそうだが、その時は筆者だけしか居らず、手持ち無沙汰のようであった。「いらっしゃい。かき氷はいかが?」と声をかけられたが、かき氷を食べるために天守閣に上がったわけではないので、聞こえないふり、いや全く無視して、普賢岳の方向や島原湾を撮影することに始終していた。そうすると、かき氷屋はベンチで横になって寝てしまった。天守閣で商売をすることがそもそも間違っていたと思う。

城の見学を終えて、予定を消化した筆者には、博多に戻るしかなかったが、帰りはどのようなルートで帰ろうか考えていた時、博多にいる遠縁の姉(再従姉)から「今、どこにおりんしゃ~と?」と電話があった。島原見学を終えて、博多に帰るところと話せば、飲みに行こうと誘われた。毎年、ご馳走になっていて、今年は遠慮しようと思っていたのだが、結局誘いに乗ることになった。

それでもまだ時間があったので、もう一度災害記念館の近くまで戻り、撮影を済ませた後、島原半島を横断するルートで帰ることにした。途中、雲仙温泉内のホテルで軽く食事をして、国道57号線の峠を楽しみながら、諫早まで戻り、福岡まで高速を飛ばしたのであった。この日だけでもちょうど400キロに近い運転をしたことになった。

実は、島原にはまた来たいという気持ちがある。というのは、島原の乱に関係する原城址に行けなかったということや、雲仙温泉で宿泊したいと思ったからだ。

続く

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2007年8月12日 (日)

1600キロの旅(1)

前回のエントリー(消去済)で記したように、今回は新車を駆って九州まで旅をしてきた。例によって、徒然と書いていこうと思う。

話の枕に、なぜ自家用車だったのかということから始めたい。その理由のひとつには広範囲で見学するには、公共交通機関では行きにくい、または煩雑であったということだ。それには過去の教訓がある。

昨年、吉野ヶ里遺跡と佐賀市内の博物館を一気に巡った際、JRと路線バスの利用で身体的には楽であったのは確かだったが、都市圏と比較して本数が少なく、発着時間に制約されて思うように堪能できなかったのが悔やまれた。それに、九州の暑さは半端ではない。日陰でじっとしているだけでも、汗が滴り落ちる。それに辟易したというのもある。

もうひとつには、4月に購入した新車の性能を長距離ドライブで確認したかったというのもある。今回は高速道路、峠道、街路を予定していたので、性能を試すには打ってつけと言えた。

ともかく単独で完走できるか不安ではあったが、あとは野となれ山となれという気分で行くしかなかった。

前日には支度を整え、深夜に出発する予定だった。というのは、ETC深夜割引を利用するつもりだったからだ。それなら、午前0時から4時までの間にゲートを通過すれば、3割引で福岡に行ける。ところが、こういう時に限って寝坊してしまい、ゲートを通過したのは割引時間帯をとっくに過ぎた6時前だった。

途中、各県のサービス・エリアで休憩をしながら、昼過ぎに到着できたら御の字というつもりで、車を走らせた。岡山県に入ったところで眠くなったので、小一時間の仮眠したが、あとは宮島、壇ノ浦で休憩をして、午後2時過ぎには祖母が眠る太宰府の墓苑に到着したのである。

墓参を済ませた後は、市内にある唯一の母方の親戚に挨拶を済ませて、西鉄薬院駅近くのホテルにチェックインしたのであった。

夜の博多はそれなりに楽しめるが、ひとり飲みができる店を開拓していないので、当然過去に行った店に足を向けることになる。遠縁の姉に連れて行ってはもらうが、どこも単独では行き辛い。

070807_195329仕方なく、呉服町まで地下鉄に乗り、何度か来た居酒屋に向かった。その店はかつて教えた学生の叔父が経営していて、少々値は張るが、それは仕方ないだろう。(写真は、2000円の刺身盛り合わせ)。

初日はこんなもんだと思い、ホテルに大人しく戻り、翌日の島原行きのために、普段はしない早寝と決め込んだ。実際のところは眠りが浅くて、熟睡できなかったが…。

続く

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2007年8月10日 (金)

無事帰宅。

楽しい時間はほんの一瞬で終わってしまう。でも、また色々と学ばされる旅だった。今回は車を利用して正解だった。非常に効率の良い見学ができたからだ。

写真とエントリーは少しずつ更新していく積り。

PS 何度か強烈な睡魔に襲われながらも、岩国から戻ってきた。約1600キロの移動距離に達していた。

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2007年8月 4日 (土)

艶度(アデド)診断で遊ぶ

ちょい悪オヤジ、艶女(アデージョ)という言葉(その変形もある)が、雑誌LEONやNIKITAで使われ、今や人柄・品格を表現するものとして一般に定着した。もっとも、これらの言葉はプチ・ブルジョワジー以上の階層を対象としているので、庶民に適用されることはない。

しかし、言葉自体はなかなか遊びゴコロがあって、興味深い。例えば、「ちょい悪」の限度を過ぎると、「極悪」となり、代紋を掲げたその筋の階層を指してしまう。それは洒落にならない。実体は不良でなく、はみ出しもしないが、悪っぽく見える、あるいはそれを演出する「型」で遊ぶという小細工が粋だと思う。

それに、人々が実際に艶やかになるのは悪くない。「艶」も解釈次第ではエロティックになりかねないが、そうではなくて(筆者の頭脳から適切な表現を見いだすことは難しいが)、その人の魅力が存分に発揮できている状態にあるならば、誰でも艶男(アデオス)、艶女になれる可能性を秘めている。

もっとも、これが一時のブームなのか、それともひとつの永続したスタイルとなるのかは分からない。ちょい悪を演出するためには、それなりの出費も覚悟せねばならないことが明らかだからだ。もちろん、筆者には無理な話だ。

ただ、自分自身がどのような type かを知るという分では、チャージ・フリーで診断してもらえる。

http://www2.nissan.co.jp/TIIDA/ADEYAKA/top.html?ID=12

早速、筆者もトライしてみた。その結果は「シックな、ちょい枯れオヤジ」だった。まだ枯れるには早い年齢だと自分自身では思っているのだが、既にちょい悪のピークを超えているということかもしれない。

読者もご自身の艶度を診断してもらう一助にしてみてはどうだろうか。

PS ちなみに、全く艶やかでない男性は「単なるオッサン」、女性は「並女(ナミージョ)」というらしい。ナミージョ、昔なら地味女というところだが、言われた側はたまったものではないだろう。

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2007年8月 2日 (木)

雑記

早くも8月になった。今週まで散発的に仕事があり、来週から本格的に約4週間ほど休暇となる。

今週末の2日間は、海上自衛隊のイベントに招待されたので、汎用護衛艦せとゆき、訓練支援艦くろべに乗艦する予定だ。対空誘導弾搭載護衛艦こんごう(イージス艦)は、以前広島の呉で乗艦したので、汎用護衛艦がどのような役割を担うのか訊ねるつもりだ。また、日米防衛のあり方などについても制服組にインタビューしてみたいとも考えている。

来週は九州まで行く予定だが、途中岩国にある錦帯橋や周南市の回天記念館も訪問することを行程に組み入れている。さらに欲を言えば、数年前に関門海峡を目の当たりにし、その景色のよさに感激したことから、風景写真を撮ることができたら理想的だ。

話題を変えると、先般の選挙で自民党内部では相当批判が高まっている。安倍首相は農相を9月の内閣改造時に入れ替えると言明したが、批判の高まりに結局更迭した。対応が遅きに失し、自ら墓穴をさらに掘っているとしか表現の仕様がない。やはり、疑惑が起こった時点で罷免すべきだったのだ。

AERA最新号では、年末に衆議院解散・総選挙の流れがあるのではという記事が出ていたが、この間に失態が出たら、もはや衆議院ですら危うい。ここは内閣総辞職をして、出直すのがいいのかと思う。もともと、今回の選挙までのリリーフ内閣と目(もく)されていたのだから。

安倍内閣の失敗は、政策の不明瞭さもさることながら、政治の裏表を知り尽くした重鎮が閣僚にいないことだ。若年の総理大臣には、枢密院のような役割を果たす重鎮閣僚が必要で、危急の際には助言を仰げるように手配しておくべきだった。

しばらく自民党の動揺は続きそうだ。

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2007年7月30日 (月)

信用は得るもの、失うもの

「信用を十分に得るまでは時間を要するが、失うのは一瞬の時さえあればいい。」

この言葉は母親からかなり以前に聞かされたものだ。その後、仕事上の先輩からも同じことを耳にし、そして自分自身それを実体験し、その言葉の重みを痛感したものだ。

なぜ母親がそのようなことを口に出したのか明瞭に思い出せないが、恐らくは高校、予備校とロクに勉学に勤しまず、両親の期待に悉く背いていたことに業を煮やして、筆者を諭したのだろう。もちろん、当時の筆者は馬耳東風で、どうせいつもの小言だろうと高を括っていた。

そしてそれを身に滲みて分かったのは、34歳の時だった。それまでに約十数年の歳月を要していた。本当に恥じ入るような思いだ。

ところで、今回の参議院通常選挙は、保守政党の惨敗という結果に終わったが、筆者流に表現すれば、まさに「信用」が担保された出来事だったように思う。

もっとも、一般的な見方は、自民党に起こった一連のスキャンダルや年金問題解決の稚拙さなど、あまりの惨めさに有権者が愛想を尽かした(野党第一党の民主党に有力な対案や政策が打ち出されていたのかというと、そのような印象もないのだが)と捉えるのが無難な見方だろうし、その点からすると、自民党が独り相撲で負けていたようなものだ。

話を戻せば、一票というのは国民の信用と同義でみていいのではないだろうか。通常、選挙というものは国民の意思を立候補者に仮託する手続きないし儀式のようなものだと言える。ただ、観点を変えると、選挙は信用争奪戦(意地悪な言い方をすれば、どちらがウソつきかを決めよという部分も否定できない)ともいえるし、したがって、今般の選挙についてはその争奪戦で、自民党が信用を獲得できなかったということだろう。

そして、選挙は信用争奪戦であると同時に、立候補者(当選すれば議員)に対する契約とみなしてよい。

法律の世界では、「契約は守られねばならない(pacta sunt servanda)」というラテン語の法諺(ほうげん)がある。そして、その前提に信義誠実(Treu und Glauben)であることが求められる。要するに、ひとたび交わした約束は、誠実に双方で約束内容を果たさなければならないということだ。

蒸し暑い日曜日の選挙では、国民と信用を前提とした契約を交わす資格が自民党にあったか否かの審判であったと筆者はみている。そして、結果的には契約内容を決定する以前の問題として、その資格が今のところないと判断されたということだろうか。他方、ライバルが勝手に沈んでくれた恩恵にあやかった民主党にもその資格が十分にあるのか、次の衆議院総選挙で判明するはずだ

結局のところ、年金問題ではとりあえず体裁を取り繕ったと思うのだが、タイミングの悪い時期に閣僚の醜聞が連続したのでは、「美しい国」作りを標榜しながらも、醜聞の連続で全然美しくない有様に、内閣全体の信用を一瞬にして失ったということが、今回のテーマの落とし所になる。

早くも安倍首相の続投が明らかにされ、再来月の内閣改造で逃げ切りたいという本音が見え隠れするが、再び醜聞が繰り返されるようなら、もう信用喪失から失墜ということになる。信用回復までの道程は決して平坦ではないが、保守主義者の端くれとして、冷静に見届けたいと思う。

PS 参議院の選挙制度は、選挙区選挙以外にも、非拘束名簿式比例代表制という制度を導入しており、この制度のもとでは著名人(政治的能力の有無を問わない)を擁立すればかなりの議席を獲得できる。

http://allabout.co.jp/career/politicsabc/closeup/CU20070705A/index2.htm

自民党もご多分に漏れず、著名人を複数擁立したが、それでも改選前議席を減らしている(2004年参議院選挙での自民比例区の獲得議席数15で、今回は14)。たった、1議席とはいえ、著名人を利用した集票マシーンが機能していないことが明らかだ。著名人の擁立ですら、逆風を跳ね返せなかった状況に、小さなことかもしれないが、筆者は自民への風当たりの強さを感じている。

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2007年7月27日 (金)

元同僚の逮捕

今朝のことだが、通勤途中、同僚からメールが送られてきた。サンスポ(サンケイスポーツ新聞)を読んでみろという。ただそれだけしか書いていなかった。

何か興味を引くような記事でもあるのかと言われるままに、三ノ宮のキオスクで同紙を買い求め、一応目を通してみた。同僚と筆者の共通項は多くなく、一体何に関係がある話題なのか、皆目見当がつかず、新快速の中で首を捻るばかりだった。

そこでヒントを得ようとメールを書きかけた時に、ふと小さな事件記事が目についた。一瞬内容を疑ったが、住所や氏名など筆者の知っている情報と完全に一致した人物のことが書かれていた。その記事は、メールを送ってくれた同僚と筆者のかつての仲間だった人が旅先で猥褻行為に及んで逮捕されたという内容だった。

彼は家族を連れた旅先であった沖縄のリゾート・ホテルの女性シャワー室で他人の女性に猥褻行為と暴行を行ったということだ。

短い記事を穴が空くほど何度も読み返しながら、信じられない気持ちと、彼ならありえたのかもという気持ちが交錯したのであった。

その後、職場でメールを送ってくれた同僚から「あの記事はやっぱり彼か?」と訊ねられた。筆者は政治思想を専攻している同僚に「唯物論を信奉するマルクスやレーニンでも、彼だと断定するはずです。」と答えた。いや、彼であるということを否定する記事が読み取れなかったから、そう言い切れたのだ。

確かに、彼は在職中多少の虚言癖があり、本当に信用に値する人物かどうか疑わしい部分はあった。しかし、それに反して勤務態度は非常に良好で、受講生からかなり評判がよかったのも事実だ。実際、看板講座も担当していたぐらいだ。

それに筆者とも一緒に仕事をする機会があったし、酌を酌み交わすこともしたが、日常的に性的な発言を一切しない、生真面目な印象しかに残っていなかった。だから、信じられない気持ちが半分あった。

他方、4年前セクハラ疑惑で彼は突然解雇されたのである。質問に来た女性の受講生に対して、個人的に飲食後、猥褻なことを行なったということが密かに語られた。しかし、それは実際を知らない人間が伝聞推定で語る域を超えていなかったので、眉唾なことだった。

そこから先は詳(つまび)らかに書けないが、当時は社内で様々な陰謀があり、無実な人間が閑職に追いやられたり、解雇されたケースもあったので、彼もそれに該当するのではないかと同情的な意見が支配した。

最早セクハラ解雇説は真実味を帯びてきた…。彼には妻子がいるのだが、ネットにまで実名報道をされ、一家の面子が丸潰れになってしまった。一体どうするのだろうか…。

もちろん、法に従って適切に処断されねばならないが、一体彼をかかる行為に走らせた要因が何だったのか気がかりとなっている。

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夏の予定

筆者の予定は、来週でほぼ終わる。先週ぐらいから夏期休暇に入るところが多くなり、必然的に自宅で過ごすことが多くなっている。

ほぼ一ヶ月の休暇があるので、色々せねばならないこともあるが、9月からの仕事の準備、読書、帳簿整理に勤しみたい。

例年旅行は九州と決まっているが、今回は新車を駆って、山口県周南市にある回天記念館に立ち寄りたいと思っている。

http://www.city.shunan.lg.jp/hp/ed-shogai/kaiten_hp/kaiten.htm

第二次大戦末期、米国との物量差に圧倒された日本は、貴重な戦力である兵士を兵器に利用した。玉砕することが報国となり、そして英霊となるのだという空虚な美辞麗句に多くの若年兵士が太平洋に散華した。

その手段に、航空特攻には零戦や飛燕、洋上特攻には震洋、潜行特攻には回天が開発され、使用された。

映画「出口のない海」で、再度脚光を浴びた回天だが、その訓練基地が周南市にあるのだ。

周辺も含めて、一日ゆっくり参観して、それをまたここで綴ることにしたい。

※参考関連サイト※

知覧特攻平和会館

http://www.town.chiran.kagoshima.jp/cgi-bin/hpViewContents.cgi?pID=20041215091804

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2007年7月26日 (木)

「食」という漢字

「食は人を良くする。」

この言葉は、家政学をご専門とされる、さる方から直接伺った言葉だ。

仕事柄、様々な分野の方と接する機会が多いのだが、この言葉を筆者に教えてくれた方をAさんとしておこう。

Aさんは、初老を越したと見受けられる女性であるが、薄桃色のワンピースを上品に着こなされ、しかも言葉遣いや物腰が非常に丁寧で、教養豊かな雰囲気を醸し出しておられる。

最初はお互いに遠慮がちに挨拶程度で済ませていたのだが、やがて少しずつ話すようになった。今回はそれ以上にAさんと談笑する機会に恵まれたのであった。

それは、筆者が昼食を摂っていた時のことで、何が弾みとなったかは忘れたが、食事や栄養バランスのことなどが話題になったのであった。そこで、筆者は「先生のご専門は栄養学か何かで?」と尋ねると、「私(わたくし)は家政学を教えておりますのよ。」と非常に上品な口調で返答されたのである。

Aさんは、食育も講義されておられるようで、食べることは単に健康を維持することだけでなく、心も良くするのだと強調されておられた。それは「食」という漢字に収斂されているのだという。数日たった今でも、一語一句を鮮明に記憶している。

「食というのはね、生きていくために大切なものでもありますが、漢字から分かるように、人を良くするものでもありますのよ。食は心も良くするのです。」

それを聞いて、筆者は膝を打つと同時に、恥じらいを感じた。なぜなら、彼女の眼前にコンビニ弁当にミニサラダ、そしてスパークリング・ウォーターを広げ、あたかも貪るようにして食事をしていたからだ。取り合わせは決して栄養学に叶っていない。

筆者にとって、食事は最低限の空腹を満たすものという程度にしか捉えていない。特に、孤食の時はそうだ(もちろん、他人と会食する時は一応TPOを考えてはいるが)。だから、普段あまり栄養のことなどを考えずに、食べたいものを食べたいだけ食べている。彼女によると、食べたいものがあると思ううちは健康であるということだが、野菜ジュースを加えるなどでもいいので、取り合わせを考えるのがベストだという。

さらに、Aさんは「母の味」の大切さも強調されておられた。いわゆるインスタントで間に合わせるのではなく、手間をかけた弁当こそ心がこもっているので、青少年にはなくてはならないものだという。同じ弁当でも、心がこもっているかどうかは味から食べる心構えまで全て異なるらしい。

そういったことを聴きながら、筆者は「父」では駄目なのかと、余計な返しを危うく入れそうになったが、そこは抑えて、しばしAさんの話に耳を傾けたのであった。

Aさんの話を耳にしながら、偏食や粗雑な食事が青少年の精神行動に良い影響をもたらさないという内容の医学研究論文を読んだことがあるのを思い出した。また、家庭裁判所調査官が少年鑑別所で非行少年の食事作法を観察すると、箸の動きは主食と副食を交互するのではなく、主食か副食を先に平らげる傾向があり、しかも食べ残しも目立つという話も見聞したことがある(家庭環境がたぶんに影響しているのだろう)。

それに、行く先々で青少年の食事風景をよく目にするのだが、手作り弁当を持参している学生をほとんど知らない。雑食の筆者ですら、それが食事かと驚くこともある。

学生には学生の事情があり、それに口を挟むつもりはない。しかし、Aさんの話を拝聴して、食べることの大切さを心に刻んだのであった。食が人の心を良くするという言葉は、たったの一言ではあるが、なかなか重みがある。今後も聴かせて貰いたい話はあるので、次にお会いした時には名刺を手渡すことを忘れないようにしたい。

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2007年6月29日 (金)

soliloquy

生きていくことが辛い。それを久々に感じている。

何もかもが失せていく。気力、体力、そして真実に立ち向かう情熱。それらが一気に掌中をすり抜けていく。もう惜しいと思わなくなった。時間ですらその感覚にある。

生きていることを確認するために、身体を起こし、語り続ける。しかし、その言葉は誰の記憶にも留められず、虚しく消えては無くなっていく。この虚しさは一体誰に分かろうというものか。

死に場所を求めて彷徨う自分自身がそこにいる。生き急ごうとする自分自身に列車が向かってくる。時折飛び込んでもいいと思う時がある。そして右足でステップを踏みかけて、辛うじて思い留まる。後ろ指を指されて嘲笑されたくはないからだ。

卑怯者と唾棄されて死にたくはない。同じ死ぬなら、名誉ある死を選びたい。いや、野良犬が道端で轢死していても誰も見向きしないような最期を遂げたいのが本懐だ。

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2007年6月11日 (月)

(仮)人はなぜ病むのだろうか

※今回のエントリーは途中経過も公開しながら進めます。時間がかかっても、とりあえず納得するところまで書きますが、もちろんコメントは大歓迎ですし、コメント次第ではそれも織り交ぜたいと思っています。※

ここ数年、学生を相手に仕事をして思うのは、人の話を聞かない(聞こうともしない)、努力をしない、何をすべきか空気を読めない、言葉遣いが荒い、自分自身の身体を大切にしないなど、否定的な印象を多々抱くことだ。

先日、仕事先で学生が体調不良のために欠席したいと申し出てきた。筆者は何も考えず了承したが、「先生、すみませんねぇ。あの子、神経が細くて、こうなんですよ。」と、クラス担任がすぐさま筆者に近寄ってきて、人差し指を刃物に見立てて、手首を切る真似をした。それはリストカット症候群に罹患していることを意味していた。筆者の眼から見れば、件の学生がかような病歴の持ち主であることを思わせないぐらい、人懐っこいゆえに、半信半疑の思いであった。

担当講座を終えた後、しばらく担任と話しこんだのだが、彼は具体名を挙げながら、その学生以外にも精神的に病んでいる学生が多いことを明らかにした。

筆者にしてみれば、たとえ学生が精神的に病を抱えていても、恰も火中の栗を拾うがごとき振る舞いを敢えてするつもりはない。彼らが筆者に累を及ぼさなければ、という条件がつくが。だが、好奇心からなぜそのような人間が増えつつあるのか気になった。もっとも、本を読めば分かろうものだが、時間的にその余裕は無い。

そこで、担任にその理由を問うてみたのだが、彼は「今の子達は自分というものを持っていないので、外的刺激や圧力に弱く、逃避的行動をとるのです。」と教科書に書いているような紋切り型で語ったのであった。

社会福祉士の資格を持つ彼の説明は一理あるのかもしれない。しかし、筆者は膝を打つほど得心しなかった。折角説明してくれた彼には悪いのだが、アイデンティティーの喪失と自傷行為の因果関係について明らかにされなかったからだ。もっとも、筆者がさらに質問しなかったことにも非があるのかもしれない。

何となくもやもやした気持ちが晴れないまま、同じ質問を別の仕事先の上司に話してみた。ちなみに、ここの仕事先も、相応の実力がないのに自尊心だけが高かったり、もともとの基礎学力にかなり難があったり、さらには集中力が全くないなど、日常生活面で問題を抱えている学生が多い。

筆者がぶつけた質問に、その上司は「そら、豊かになったからよ。この国が貧乏であったり、戦争であったりしてみ。生きていくことが最優先されなあかんねんで。遊ぶこととか、手首を切ることとか考えてる余裕なんかないし、そもそも病んでる暇なんかないで。」と答えた。

「ということは、豊かになったのはいいけど、欲望の雑念が湧いて、もてあましてしまい、勢いネガティヴな方向に走るのが現状なんですね?」と質すと、あっさりと「そうや、それだけや。」と返された。

その上司は、以前にも、秩序意識の涵養に関して「天皇制が崩壊し、宗教的基盤がないこの国では、国全体の価値基準すらないんで、各々が好き放題しよる。だから、規律が乱れるんねん。徴兵制を導入して、曲がった根性を叩き治さな、あかんわな。」とも言っていた。それが正当な方法であるかどうかは別にして、もはやショック療法的な手段しかないのかと悲観的に考えてしまう。戦争という危機な状況が発生して初めて、何を大切しなければならないのか気付くのかもしれない。

話を戻して、アイデンティティーの喪失か、あるいは豊かさのツケなのか、どちらの見解が正しいのかは、客観的な実証なくして議論できないにしても、印象の問題として、後者の見解の方が頷ける話だと感じた。もっとも、規律や生活習慣などの点も考慮しなければならないのであるが。

情報、モノ、カネに溢れる社会の中で、「渇望」と表現すれば大層かもしれないが、およそ物的には求めるものを入手できる時代にあって、生きる原動力が社会的にも個人的にも霞むことは必然なのかもしれない。

何をしても報われることがないとなれば、アパシー(apathy)になるのも仕方のないことかと思うのだが、翻ってみれば、そもそも人生はそういうものではないだろうか。

このブログの読者の中で、本当に望むことを達成できたのは何人いるだろうか。いや、社会全体でどれほどいるのか。筆者自身についていえば、本業を獲得する夢を外圧で絶たれた部類に属する。世俗的な表現を借用すれば、いわゆる「負け組」だ。また、筆者の周辺にもかような境遇で生きている者は珍しくない。

個人的な経験だけを頼りに一般論を展開するのは限りなく妄説に近づく危険があるので、過度に依拠することは避けなければならない。しかし、そうであっても、アパシーになるだけの環境が悪い意味で整えられているし、既得権益が幅を占める中でチャレンジする機会すら十分に与えられていない現状は、全てを否定的ないし破壊的方向に導くだけに過ぎないと思っている。

彼らの姿は、そのような部分を vivid に反映したものかもしれない。

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2007年6月 4日 (月)

ワンコール・ワーカーの群れ

毎週3回、仕事で新大阪に出ている。今日も天満で仕事を済ませた後、例のごとく移動した。

新大阪駅から仕事先まで移動する途中、駅構内で営業している書店の前を歩きながら、店内を覗くと、何も陳列されていない書籍棚ばかりが並んでいた。他方、店外には段ボール箱で商品(恐らく書籍類)搬入作業に従事する一群、数にして、およそ20名ばかりがそれを担ぎ上げ、階段を昇降していた。

彼らの姿を見ると、一様に小汚く、年齢層も揃っていない。当然顔に生気が漲っていない。それゆえ、彼らはワンコール・ワーカーだろうと容易に想像できた。

ワンコール・ワーカーの劣悪な待遇については、マスコミで伝え広められていることだから改めて書くまでもないが、人間が人間として評価されない姿ほど見るに堪えられない。自由競争社会の成れの果てがここにある。

かような現状を目にすると、筆者は、ラッサールが提唱する国家社会主義の必要性を日々感じるのである(日本の国家社会主義は国粋主義的な傾向にあるために、筆者は必ずしも与しない)。

エコノミスト達は、成金のノウハウや蓄財術を講ずる前に、経済学的にみて利益均霑社会を実現するための理論を率先して論ずるべきではないだろうか。かようなことを思いながら、筆者はその場から立ち去ったのであった。

【6月6日追記】

格差社会という言葉が陳腐化して、口にすることさえ嫌気がさすが、恐らく我が国の50年後は、激烈な闘争社会になるだろう。経済的格差、知的格差、生活品質格差が蔓延し、強者が弱者を食み、弱者はただ強者に隷属するしか方途はないはずだ。まさに、万人の万人に対する闘争と化す。その時に、下克上的な革命が起こるのか。もし起これば、当然ながら、その帰結として日本は新たな転換を迎えることになる。我が国の行く末を憂い、行動を起さんと決起する青年将校が現れることを願いたい。ただ、知識量だけが豊富な人物は要らない。時流を的確に読み、世紀を予測できる人物こそ、救世主になりえるかもしれない。閉塞した我が国の気風を打開する憂国の士が欲しいと筆者は真摯に思うのだ。

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2007年5月31日 (木)

愚かな人間による組織の破壊

長年仕事をしているところが経営難に陥り、7月に大手企業に経営を譲渡する。そのニュースは昨日の日経新聞に掲載され、やっと公にされることになった。かねてから、倒産のXデーはいつなのかという噂はあったのだが、最悪の事態は回避された(本当はこれからが棘の道なのだが…)。

経営難の原因は、端的に言えば、経営者の無計画かつ放漫な経営に尽きる。確かに、創業者である件の経営者は一代で大きくしたが、他方余りのワンマンで、現場に出てきては営業方針について干渉することが多かった。当然社員から疎ましがられる存在であった。しかも、誇大広告に、粉飾決算まで黙認し、コンプライアンス(法令遵守)は杜撰極まりないものであった。

また、年に何度か意味もない言辞を弄するために、講演会なるものを開催し、これまた論が雑駁な自著を売りつけるという、統一教会の霊感商法に匹敵するぐらい酷いものであった。ネットでは、それを揶揄して、経営者の姓名をとって「○○商店」だとか、笑い種にもならない皮肉が交わされていたのであった。

経営難が囁かれてから、社員の中には不安視する声もあったのは確かだ。しかし、肝心の情報が社内の中でも公開されなかったため、彼ら自身が身の振り方に躊躇したのも事実だ。

今年に入ってから、周辺情報によると、ホワイト・ナイトが現れるという話は何度かあった。しかも、筆者のインテリジェンスでもその真偽を確かめる術はなかった。もっとも、実体が見えない不確実な話に、誰しもが振り回されたのは言うまでもない。

筆者も、その存在を確かめるべく、幾つかのネットワークを駆使し、インテリジェンス(情報活動)を試みた。もちろん、筆者自身の生活問題にも関わることなので、座視はできない。 もちろん、ステルス戦闘機のようなホワイト・ナイトの存在を疑いながら、事後の計画を徐々に練っていたのである。全く魅力の無い経営難の企業を救うような奇特な企業はいないと確信しながら。

しかし、事態は急転直下の展開になり、実体のないとされたホワイト・ナイトが突如現れた。この時点で、崩れた事業を引き受ける筆者の計画は大幅に崩れたのであった。

先日、先に書いた報道に先駆けて、身売り先が社内で正式に発表された。若手社員の一人が「先生、決まりましたよ。」と内輪話を持ちかけてきた。彼は下降気味の講座を上向きにしようと努力していた人物で、筆者はその努力を買っていた。

彼は社内報で2日前に知ったということであったが、こちらはインテリジェンスの関係で一週間前に既に知っていた。「そうか~、よかったなぁ。」と投げやりな言葉を出すしか方途はなかった。もちろん事前に情報を察知していたことは一切顔に出さなかった。

しかし、彼の顔はどうも浮かない。それもそうだ。リストラの噂が飛び交っているからだ。受け入れ先があったからといって、全員の雇用は保障されない。むしろ経営難を理由とする救済だからスリム化しなければならないし、そうなるのが必至だ。

これも経営者が早期の段階でリストラやダウンサイジングをしていれば傷口は大きくなかった。しかし、トップの座に拘泥したばかりに決断が遅延を重ね、年度を跨いだ挙句、今年度の分も含めて負債も大きくしてしまった。

しかも、適切なタイミングでの周知を怠ったばかりに、その経営者は社員の再就職のチャンスすら奪ってしまったのだ。かような経営責任ならびに道義的責任はやはり大きい。もちろん、社員にとっては痛手どころか、代償がなさすぎる。

筆者は彼に尋ねた。これからどうするのかと。彼は「規模を縮小するなら辞めます。在籍していても仕方ないし。でも、拡大の機会があるなら頑張りたいです。」と答えた。

それに対して、拡大は絶対的にありえないことを話さなかった。私は可能な限りのことを知ってはいたが、彼には言うまいと決めていた。なぜなら、彼の一縷の希望を否定したくなかったからだ。

その代わり、こう言った。「俺も始末されるだろうから。ふたりでワンコール・ワーカーになるか!?ネットカフェで泊り込んで、時間給で働くのも人生かもな。」

二人の間に一瞬虚しい空気が漂った。我々はそれを瞬間的に察知して、ありえないユーモアを交わして、誤魔化したのである。しかし、その笑いさえ、心底面白いものではなかった。そうでもしないと、やるせなさだけが残されるだけだったので、それしか術がなかったのだ。

私の腹の中には経営者に対する怒りだけが残っている。多数の社員を路頭に迷わせようとする、自身の責任をどのように償うのか、いや彼にはそれが不可能だから、逃げ切るだろう。

もし私が青年将校なら、極刑を覚悟で迷わず射殺を選択しただろう。

くだんの若手社員の人生、いや全社員の人生を無責任にも変更させた事件に、彼らの行く末を思慮すれば、自分自身の先のことは小さなことに過ぎないと感じる。個人的関係がどうであれ、一緒に仕事をしてきた仲間だけに何とか救済されて欲しいと、はかなくも希望するのである。ただ、それはもう私の手には及ばない範囲のことになってしまったことを悔やむのであった。

どこにも愚かな経営者はいるものだ。しかし、自己の保身ばかりを考え、社員の全生活を背負えないような人間に経営者となる資格などない。当然の話ではあるが、あらためて思い知ったのであった。

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